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統心ヌースクール#07「垂質の巻A・Ψ5~6」

2025/06/01
今回の記事はヌースクール#7のまとめと感想です。
前回のまとめと感想は、コチラの記事で確認できます。


という事で、今回の本編のライブ動画はこちらです。


タイトルに「変換人」のワードが出てきましたね。
何やら難しい話になる予感もしますが、早速まとめへと進みたいと思います。

前回の復習

まずは統心流・21世紀版「洞窟の比喩」より、顕在化と潜在化のお話から始まりました。

説明では、光源側と残像側のイメージから、ネガとポジ(写真)の関係がひっくり返っているだとか、音楽のカセットテープや(今はあまり見かけませんけど、若い人はご存じかなぁ?)レコードの針の方向など、盛りだくさんの例えがありましたね。

このような具合で、人間は存在から送られているモノを受け取った時、全て逆向きになっているとの事。

と、ここで逆向きについての余談ですが、例えば「物を見る」行為も、そのような具合になっています。

例えば、今私の目の前にはパソコンや机、窓の外には木々や空が見えます。これらは光が反射して、私たちの目に届くことで「見える」んです。 光が物体に当たって跳ね返り、それが目の網膜に映って、脳がそれを「形」や「色」として認識する——これが「見える」仕組みの基本です。
(上記はXのAIである「Grok」との会話の中にあった彼の返事の一部です)


また、この手の話は、ゆるぬーの漫画でも扱いました。


本編に話を戻すと、「後ろ側」とは瞬間性の連続で消えていくものだそうです。(詳しくはシーズン2で扱うそなので、楽しみですね)

一方の「前側」が持続で、光源の世界になっているとの事。

また、noosな暮らしの動画にある「大元の仕組み」の例えから、影の世界から光源の世界へ至る顕在化は、円心の仕組みもポイントになっているのだとか。

と、ここで、ヌーソロジーでは、馴染の無い円心を扱うのか?と言うと、私達が「逆向き」に物事を見ているからなんでしょう。

ここで言う「逆向き」とは、方向としては「前後」のような「反対方向」ですが、本当は鏡のように「反転している」と言った方がより説明が鮮明になるように思います。

これはサイト主の個人的な感想なのですが、反転のポイントは、「陰陽」のような二つの関係を指す言葉でありながら、コインの「表裏」のように、「表を見ている時に裏側は見えない」事実が何を意味するのか?を考えるのが重要だという事です。

例えばですが、朝、顔を洗う時に、洗面所の鏡に映る自分の姿を見る人も多いかと思います。

このような日常生活に溶け込んだ「鏡を見る」の中には、「鏡に映った像を見ている時に、映し出されている側の実像は見えていない」が紛れている訳ですが、このような感じで、見えていない空間を体感的にするのがヌーソロジーの醍醐味なんじゃないかと…。

少し脱線しましたが、本編では、「円心」の概念を用いれば、広大な宇宙の世界は単一の素粒子として見る事が可能との事。

こうなると、今まで自分の外にあると思っていた広大な宇宙(時空の世界)は、実は自分の内在の世界であり、それは「前」の世界だと言う事になりますね。

この辺りの認識のひっくり返りも、人間の外面の発見に繋がっていきます。


本来見えているはずの「人間の外面」である「前」の世界。

けれど前の世界は、見えないはずの「人間の内面」である「後ろ」の世界に取り込まれて、全く違う空間である事すらわからなくなっているんですね。

また、前を後ろの空間から切り離す作業は、「観察(知覚)」と「推察(言語)」の分離と言え、二つの空間の違いや切り離し方が見えたとしたら、半田さんのポストにある画像の内容が「あ~!本当だ!」といった感じで一気に整理されてくるかと思います。

さて、本編でも鏡の話が出てきました。

因みに…ですが、鏡は何が反転しているのかご存じでしょうか?

鏡文字があるので、左右の反転だと思う方が多いと思いますが、実際に反転しているのは「前後の方向」なんですね。


つまり「顔」があるのは「後ろ」の世界になっている…。

この事は、半田さんのブログ「時間と別れる50の方法」の中にあるように、自分の顔は後ろの世界の代表の様なイメージを持つと感覚的に分かりやすいと思います。

ここで、実際に鏡を覗いてみましょう。 わぁ、変な顔! 余計なお世話です。
しかし、よくよく見てみると、そこに映し出されているのは「わたしの顔」と言うよりも、わたしの「後ろ」と言った方がより正確です。
つまり、顔というのは、わたしの背後世界を代表している代理表象なんですね。
「前」=知覚正面そのものとしてあった無垢な原初的主体が、他者の眼差しに映し出された顔と同一化することによって、そこに自分を重ね合わせてしまう。
「後ろ」へと反射する「前」。ここで知覚正面は一気に知覚背面へとその表裏関係を反転させられ、そこに「後ろ」を引き連れた「後ろ」の王としての自分の顔面イメージが登場してくることになります。


この事から、「私」としての像(肉体)が有るの世界は後ろの世界で、誰かが見ている客観的な空間と言え、私の顔が無い(見えない)前の世界は、「主観的」な空間になっていると言えます。

統心さんのお話にもあるように、人間の内面とは「客観空間」の見られている世界で、人間の外面は「主観空間」の事なので、二つの空間の切り離しが人間型ゲシュタルトの解体に繋がります。

また、「位置の交換」とは、見ている側の主体と見られる物側の客観を、まるで見る見られるの関係をひっくり返すようにして、見られる自分を客観側とし、見ているの物側を主観側として、今までのイメージを交換する事を指すと言っても良さそうです。

このような主観と客観の入れ替えを、位置の交換だとすると、これを体感的に理解するのは難しいかも知れません。

サイト主は、目の前の空間を見るとは、一体どういう事なのか?を理屈から考える事で気付いた事柄を集め、それらを徐々に感覚と馴染ませる事で分離が見えて来たので、色々な事を考えるのは遠回りのようで、案外近道になるのかも知れませんよ。



統心さんも理屈的な理解から、ある日、体感的にストン腑に落ちるイメージだとおっしゃっていたように思いますので、焦らずに徐々に馴染ませるのが良いようですね。

この事から、一瞥体験から離れるには、体験や体感から掴むより、自分の納得する形を使って、レクチャー内容を整理する方から入るのが良いようです。

残像の世界からから離れるとは、理屈から体感を得る事のが良いとの事なので、どこまでも反転(考えるな感じろの方向が逆)なんだなぁという感想を持ちました。


一瞥体験からの離脱はΨ5

さて、ここから本格的に、垂質次元のΨ5である「位置の等化」のお話になりました。
OCOT情報ではなぜかこのψ5の球空間の顕在化のことを「位置の等化」と呼んでとても重要視しています。「位置の等化」は「人間の最終構成」という概念と直結しており、位置の等化によって人間という次元は終わりを迎える、とまで言っています。

Ψ5の顕在化の事を、統心さんは人間の終わりだと言いました。

かなり過激な表現のように思いますが、シリウスファイルによれば、「人間の内面」と「人間の外面」を統合しますとの事なので、前と後ろの空間の違いが見えないままの状態で意識進化に進む事が起きてしまうと、人間の終わりとした表現も、表と裏の2つの方向が垣間見えて、少し危険な感じがして恐ろしいですね。

という事で、前と後ろの違いを理解した状態で、Ψ5の空間を顕在化する事が、ある意味で正しい変換人としての入り口に立つと言えそうです。

変換人の入り口が見えた所で、「ある」と「いる」の話になりました。

また、「ある」と「いる」を理解するとは、Ψ5と、前後の違いが曖昧な状態で結合した意識(Ψ6)の違いが何なのかを知るためにも必要なように思います。

ここで「いる」の事を、島津さんは「生きているのを指すのが「いる」のイメージ」だと答えられていましたね。
これは感覚的にとても分かりやすいイメージの表現でした。

また、日本語はモノとわたしの違いを「ある」と「いる」で違いを分けているとの事なので、いるが人間の主観であり、あるが客観側として日常的に使っているようです。

そして人間は「ある」が先手となり、人間には肉体があるが前提となって、意識は肉体に宿るような形で、意識があると考えます。

つまり私達が「いる」と思っている感覚は、「ある」と「いる」の順番が、「Ψ4→Ψ3」の偶数先手に埋もれている感じになっているんですね。

ここで、Ψ5の「いる」である奇数側を先手にする為には、「ある」と「いる」の感覚も反転させて、そこから「いる」と「ある」を統合する「なる」へ至る事だと統心さんはおっしゃいます。

このような「なる」の空間は、先ほどの表現で言えば、人間の終わりになっているので、一般的に使われる、成功者としての「何者かになる」とか、スピリチュアル界で言われる人間の想定する何者かになるとは違う「なる」である事が見えて来ます。

そしてヌーソロジーで言う「なる」をΨ5の顕在化だとして、体感として落とし込むヒントになるのが、「既になっている」と思う事だそうです。

これは理解即実践の、理論と実践が分かれていない領域のようで、Ψ5の顕在化は、一瞥体験を超えた世界になっているのだそうです。

あるは、地図の思考
いるは、現場の思考

そして
なるは、生き方

このようにして、理論から実践、そこから体感として定着させるのが、変換人への道筋だという事ですね。

因みに、「ある」「いる」について、半田さんも違いがわかるかな?的なポストがありました。


その事を取り上げたのが、こちらの漫画です。


また、他にも「ある」と「いる」について描いた漫画もありますので、よければこちらもご覧ください。


さて。
Ψ5を顕在化させると言っても、一体どのようにして見つければいいのでしょうか。

統一さんがおっしゃるには3つの方法があるとの事。

ここににレクチャーにあった手がかりを載せておきます。

①Ψ3の複数系としてのキットカット実験
②Ψ3を観察する空間としての第二無限遠点
③Ψ3(外面)とΨ4(内面)を統合して、同じものとして見る空間


Ψ5を顕在化する

ここから先ほど掲げた③つの方法の解説に入りました。

まずは一つ目です。

「①Ψ3の複数系としてのキットカット実験」は、「ある」としての肉体に、自分が「いる」の方向を変えるヒントになっているとの事。

例えば、周りを見渡せば、当たり前ですが、多くの物が目に入って来るかと思います。

今の私なら、目の前にパソコンの画面が見えて、その横にiPad見えますし、パソコンの反対側にはお茶の入ったコップが見えます。

このように、「私」を基準にして、周りを見渡せば、自分の周りに多くの物があるように感じる事が出来ます。
このような、私1に対して、多数の物があるの感覚をひっくり返すのが、キットカット実験で見える「円心」です。

キットカット実験はこちらの記事で扱っています。


そして、このような認識のひっくり返しは、リンゴ反転ワークのも通じるとの事でした。

さて。

キットカット実験では、私の周りにある複数の物(キットカット缶の見える面の違い)は、「私の前に見える物」として、一つに束ねる事が出来ます。

(今回、「束ねる」を意識した動画を作ってみましたので、良ければご覧ください)



更に言えば、リンゴ反転ワークの背景面を考えると、物の背景が意識の位置として見事が出来ます。

と、この事を文章にするとかなり分かりにくいのですが、統心さんの説明を踏まえて、本家のキットカット実験や、リンゴ反転ワークをやってみると、徐々に色々なモノが整理されてくるかと思います。

そして「非局所」のイメージも、先ほどのキットカット実験で起きた反転を踏まえると、位置の決まっている局所を、無数の位置として置き換える事が出来ますので、非局所のイメージも掴めるかと思います。


さらに、Ψ5とΨ6の関係を図にすると…。


この図から、Ψ3の「いる」とΨ4の「ある」を等化したのは、物を中心にしたΨ5の空間になっており、その中心点は「対象極」になっていますね。

そして一般的に、物を見ている位置として認識しているのが「自我極」の位置で、これは自分の周りの空間を作る中心点にあたります。


続けて「②Ψ3を観察する空間としての第二無限遠点」の説明になります。

ここでは、ヘキサチューブルの図を使って、無限遠点の位置をモデルで可視化する事で、イメージを掴む事が出来たかと思います。

さらに言えば、垂子次元を見るには、垂子次元の無限遠点に出る必要がある事も見えて来ます。

ここで無限遠点が二つイメージ出来る訳ですが、一つ目の無限遠点は、一つの物周りの空間を見る事が出来、自分の周囲(複数のものがある)を見る事が出来るのは、第二の無限遠点になっている事が分かります。


このように、第二の無限遠点が見えてくると、肉体に自分が居るとしているイメージは、次元の違いが見えず、勘違いを起こしている中和側として見る事が出来ます。


さて。

ここでで半田さんのポストを参考に、マグリットの絵画からひも解くと、島津さんがおっしゃるように、垂子次元を見ている位置は垂質次元と言えるので、ここでは人間の外面と内面の等化が起きていると言えます。

これが最後の「③Ψ3(外面)とΨ4(内面)を統合して、同じものとして見る空間」のイメージに繋がるようです。

物である点球から出て、物を見ている位置(無限遠点)として現れたのが垂子次元だとすると、物を見ている肉体が見えているのは、垂質次元のはずですが、この肉体に意識が宿るイメージを描く事は、垂子次元に落ちた意識だし、更に言えば、肉体を物と同じように物資としての点球次元とみなしている意識は、物に囚われた、物の中(点球次元)の意識だと言えます。

このような感じで、ヘキサチューブルから見ると、垂質次元は、見られている自分も見えている、第二の無限遠点という話になってくるのだと思います。



まとめ

今回の内容も難しく感じましたが、個人的には「なる」の意味がかなり整理出来たように感じました。

それでも一番のポイントになるのは、キットカット実験なのかな~?とも。

それにキットカット実験の動画は、半田さんが何度もポストしていますので繰り返し見ると、実際に自分で動いてみる方向から体感的に落すのも良いですね。

また、体験しながら思考的に組み立てるのは、Φさんのポストが参考になりますよ。


という事で今回のまとめは、統心さんの③つの方法を元に書き出してみたいと思います。

①Ψ3の複数系としてのキットカット実験
垂質次元は、複数の物を見る(Ψ3)のイメージから、自分の周りの空間として見る事が出来るが、このような感覚はΨ6となっている。

一般的な感覚であるΨ6の偶数先手を切り替えるには、キットカット実験で見えるΨ5の空間を見出し、顕在化させる必要がある。(これが変換人の入り口になっている)

また、キットカット実験は、複数の物の見えが、見る方向としての前で束ねられている様子も見る事が出来る(実際にそうなっている)ので、局所が非局所として見えて来る。

②Ψ3を観察する空間としての第二無限遠点
物を見る(Ψ3)が、物の外で行われ、これが点球次元の無限遠点になっているのだとすると、物を見る意識を認識するイメージは、物を見る無限遠点を見るイメージで考える事が出来て、それを第二の無限遠点と表現する事が出来る。

③Ψ3(外面)とΨ4(内面)を統合して、同じものとして見る空間
第二の無限遠点である垂質次元は、垂子次元を見る事が出来ているので、人間の外面と内面の両方が見えていると言える。

垂質次元のΨ6側は、外面と内面の違いが曖昧な中和の状態なので、外面と内面の違いが見えているΨ5を顕在化する事が大切である。


と、まぁこんな感じになりましたが、皆様はいかがでしたか?

統心さんは復習が大切とおっしゃっていますので、当サイトの内容も参考になれば幸いです。