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ヌーソロジー漫画 ゆるっとぬーそろじー#42「物の外は精神?」

2025/01/05

ヌーソロジー漫画 ゆるっとぬーそろじー#42「物の外は精神?」
ヌーソロジー漫画 ゆるっとぬーそろじー#42「物の外は精神?」
今回のテーマは対化です。

対化は文字にすると「対に化けた」と表現が出来ます。
という事は、「対化」とは「何かが対に化けた…」と考える事も出来るわけですが、もしそうだとすると、一体何が二つに化けたと考える事が出来るのでしょうか?

と、この辺りの事を考えるお話が、物の外の世界を考える話になっていきそうな気がします。

例えばですが、私達が物を見る時には、見る側と見られる側の関係が出来ます。
この事を極端に言えば、物の中では、見ると見られるに別れる前である…と考えて良いかもしれませんね。

さて。
ヌーソロジーでは物の外である、「物一個の周りの空間」の事を垂子次元と言って、ここを最小精神の対化と表現されていたように思います。

という事は、物が現れると同時に、見る側と見られる側に別れて、それぞれの位置が明確になった…と考える事が出来ます。

そして、この二つを繋ぐ関係性は、観察そのものだと言う事が出来ますので、ヌーソロジーの観察子構造は、このような二つの関係性を元に考える方がスムーズなように思います。

と、今では少し明瞭になってきた部分があるのですが、かつてのサイト主は、ヌーソロジーの観察子構造について、どういうものとして捉えて良いのか分からず、半田さんに質問をした事があります。


そして回答を得て、色々考えた末に、このような疑問に辿りついた次第です。

認識は身体の位置にあるようだけれど、認識させている無意識はどこにあるのか???

認識側と、認識をもたらす側を対化として考えてみると、このような関係性の対が観察子構造そのもの…と言えるのかも知れません。

それに、実際の世界で見る事を考えると、物に当たった光の反射光を人間が受け取って、それを物として見えているイメージ(ざっくりな表現です)ですから、ここにも対になっている、光の方向性の違いが起きている訳です。

そして、物を見る事自体を考えると、見る意識の方向性や、物を見る意識自体は殆ど無自覚で、「物を見た」という認識を持つ事で、初めて「私は物を見ている」と、見る意識を意識に置けるイメージになっています。

このように考えると、先行しているはずの、自覚が出来ない「見る意識」を理解するのがヌーソロジーの醍醐味…と言えるかも知れませんね。