ヌーソロジーでは「ある」の世界と「いる」の世界を明確に分けて考えます。
(ゆるっとぬーそろじー漫画でも何度か話題にしていますかね?)
何度も同じ話題をするのは、この二つの違いを考える事が大事っぽい感じがするので、何度も自分に言い聞かせるように描いているからです。(自分で描きながら刷り込みをしているような感じです)
という事で、今回は本文が長いので目次をつけて書いて行こうと思います。
(漫画だけで良いや~の人は、ここでブラウザのバックボタンを押すか、サイトのホーム画面へ戻ってくださいね)
一般的な人間の感覚は「ある」の世界
さて。まずは「ある」の世界のお話から。と言うのも、こちらの「ある」の感覚が普段の私達…いわゆる普通の一般的な人間の感覚になっているような気がするからです。
つまり私達が普通に感じている、何ら疑問にも思わない「私が主体で対象物が客体だ」といった感覚はヌーソロジーでは「ある」の世界だと言います。
ヌーソロジーの言う「ある」の世界は、自分を中心にして空間の広がりを感じるような空間の認識です。
広大な宇宙の空間があって、その中の太陽系の地球という惑星の日本という島国の…といった感じの空間に自分の体があって、そんな3次元時空の中に私も他者も居て、リンゴもありますよって感じの世界観です。
このような「ある」の世界での主体は私で、その主観は、自分とは異なる外の空間を認識した際の主観です。
そしてそれは、自分の思考している事柄や内情の事です。
「ある」の世界の主観は、体の内側に存在する心や、脳内の思考のイメージがですかね。
そうなると目の前にある物や、見える物は私とは異なるので客体となり、それは自分の主観の世界とは違う外の世界にもなるし、他者も同じ外の世界である3次元時空の中にいるのだから、そこは客観的な空間となります。
…というのが普通の人が持っている主観や客観のイメージだと思います。
「いる」は見えの世界そのもの
次は「ある」の世界の反対側の「いる」の世界です。さて「いる」の世界の「いる」とは一体何を指すのでしょうか。むしろ何かを指すというより、一体何が居るのでしょうか?
この時の「いる」を私が居るだと仮定すると、「いる」の世界は「私の居る世界」で、私が存在する世界の事になりますが、これで合っているのでしょうか。
という事で、「いる」の世界をアレヤコレヤと考える前に、まずは半田広宣さんが何とおっしゃっているのかを覗いてみましょう。
ヌーソロジーと大森荘蔵の「面体分岐」 – cave syndrome
大森荘蔵の「面体分岐」という概念がある。これは本人の言い方を借りれば、視覚経験において「何が見えているのか」と「何を見ているのか」という二つの分岐のことを意味している。分かり易くいうと、おおよそ次のようなことだ。
今、目の前にパソコンが見えている。見えているのはパソコンのモニター部分だ。背後側のUSBポートの部分などは見えてはいない。しかし、この状況で他人に「あなたは何を見ているのですか」と問われれば、「パソコン」と一言で答えるに違いない。ここで大森が言っている「何が見えているのか」と「何を見ているのか」という違いは、こうした対象の見えと対象全体の概念の違いと言っていい。これは知覚と言語(名)の関係と言ってもいいだろう。
大森荘蔵はこの面体分岐こそが主体と客体との関係にほかならないと主張した。つまり、主体=心とは「見えているもの」に他ならないと言うのだ。彼にとって、わたしたち人間の心の在処は脳などではなく、見え姿が展開している知覚正面そのものにあるということになる。大森哲学とはまさにこうした「無脳論」なのである。
上記の引用をそのまま素直に受け取ると、「見えているもの」が主体であり、それが心情そのものだ…といった雰囲気ですね。
だとすると、私としての主体の視線の先の「見えているもの」が主体になるので、目の前と私が一緒になってしまったかのような感覚になります。
あれ?とお気付きかも知れませんが、これは先ほどの「ある」の世界で書いた『目の前にある物や、見える物は私とは異なるので客体』の主体の位置が逆になった上で、主体だと感じている私とは一体何なのだ?と疑問が出てきます。
とりあえず新たに生じた「私は一体何なのだ?問題」の疑問はとりあえず後で考えるとして、目の前の「見えているもの」に話を戻すと、ヌーソロジーの空間認識の考え方では、今まで対象としていた側が主体であり、客観的な世界だとしていた外の空間が、自分の内情や自分が存在している自分の内側の空間だって話になるようです。
「いる」の世界で見えているものとは?
新たに生じた「私は一体何なのだ?問題」の疑問を考えるに為に、漫画ではサクッと描いた、「いる」の世界で見えているものとは一体何なのかを考えてみましょう。「見えているもの」が主体なら、見えている世界は一体何なのか?を考えてみるのです。
さて。「見えているもの」とは、どう考えても文字で表現が出来そうにありません。
それでも言葉に出来なくても実はとても簡単な言い回しで表せます。
「見えているもの」とは、私の目の風景や景色そのものではないですか?
そしてそこから何か一つの対象物を見れば、その対象物がありのままの状態で見えているはずです。
つまり「いる」の世界は、言葉にするには到底文字が足りないけれど、言葉にするなら「ありのままそのもの」と言えます。
ここで半田広宣さんの記事の続きを読んでみましょう。
さて、この大森の「面体分岐」をヌーソロジーの複素空間認識に対応させてみよう。
まず「面」の方だが、これは「何が見えているか」、つまり現象の直接的な立ち現れの現場のことを言うのであるから、世界の見えを構成する実2次元平面ということになる。
しかし、実平面だけではその見えを支えている持続軸=奥行きが存在していない。だから、この「面」には「見るもの」としての虚軸が直交していると考えてみよう。ここに実2次元と虚1次元からなる主観的3次元が構成される。この3次元は大森のいう「体」とは全く違うものだ。というのも「体」とは公共的な実3次元のことを言うのだから。主観3次元は大森の知覚正面と同じく極めて私秘的(プライベート)な空間である。
(中略)
大森は知覚正面のことを「こころ」とも言い換えたのだが、「面」に虚軸としての奥行き=持続軸が加わることによって、その概念がより安定するのが分かる。「面」における見えが刻々と変化しようとも、この変化は奥行き=持続軸によって把持され、文字通り心の中のイマージュとして活動するというわけだ。
かなり略したので出来ればリンク先から本文をじっくりと読んで頂きたいのですが、人間が見えている世界は「知覚正面」の面と、その面に対して奥行きとして直行するのが、虚時間の持続になっており、それが自分の心の空間だよねって話になるようです。
(奥行きや持続の話は長くなりますし、私が語るのはまだ難しいので、この辺りでご容赦下さい。
ここでは「主体と客体」や「主観と客観」の認識を逆転させる話に戻します)
と言っても、今まで客観の世界と言われていた自分の外の世界が、実は客観的な空間では無く、自分の主観の空間でそちらが主体ですよって言われたら誰だって驚きますよね。
この事を物凄く端的に言うと、自分の見ている世界の風景や様子は、私の認識しているあるがままの風景であり状態なのだから、見えの世界こそが自分の主観の世界だよねって話なんですが、どうでしょうか。
要するに今の自分から見ている世界は、自分の位置しか見る事が出来ない瞬間の世界だから…って事ですね。
こうやって考えると、今までの客体として見ていた目の前のりんごや風景が、主体側として君臨し、主観である内情や思いのままの通りの風景がありのままに広がっている…になります。
この時の見える風景には自分の身体(特に自分の視線)が入る事は出来ないでしょう。
つまり今まで主体だと思っていた自分の身体は、あくまで他者の視線によって見られている姿であり、そこは先ほどの「ある」の世界での客体になっているのです。
「ある」と「いる」の違いとは?
ふふふ。サイト主は何を言っているのか?ですか?わかります。わかります。
はい。私も最初はチンプンカンプンでした。
だって私も貴方も同じりんご見ているのだから、見えているものは、同じりんごだろう?そして、それが客体だろう?ですよね。
そう言われるとぐうの音も出ないのですが、「ある」と「いる」の世界の違いを考えると、その違いは自分の身体の位置、特に視線の違いでは?と思いました。
「ある」の世界は、「視線がある」の世界
あるの世界では私も他者も入り混じった両者の視線があるの世界です。そして多くの視線にさらされた世界は客観の世界となり、私は他者の視線によって見られた私として他者の視線の中に存在します。
そして私も他者を見て、自分も同じように客観的な世界に居るのだと認識しているのです。
このように
「いる」の世界は、「視線になっている」の世界
一方の「いる」の世界では、自分の視線は広大な3次元時空を自分の眼差しで切り取ります。つまり「見えているもの」とは、自分の主観で切り取った唯一の世界です。引用記事の中の『ここで大森が言っている「何が見えているのか」と「何を見ているのか」という違いは、こうした対象の見えと対象全体の概念の違いと言っていい。』の事ですね。
つまり「いる」の世界のでの私は「眼差しとなっている」の世界であり、その眼差しによって切り取った風景は、まるで私という一つのフレームの中に映し出された世界のようです。
その中には自分の感じる通りの、ありのままが見えている世界が広がっており、映し出されるリアルな質感は、言葉ではとても表しきれない生々しさを描いています。
更に言えば、私というフレームはどこまでも広げる事が可能で、自分の主観ですから何を込めても良いはずです。
「ある」がまま、見て「いる」でも良いじゃない
という事で、今回は漫画の内容を通してヌーソロジーの「ある」と「いる」を色々と考えて来ました。こうして色々と考えると、自分の目の前に見える風景やりんごは一体何なのか?
また、自分の視線は一体どこにあるのか…。
そして「自分の見えている」風景は自分が感じている心情と、どう違うのか…?
なんてアレヤコレヤと悩んでしまいますね。
今回は色々と書き散らかしましたが、取り上げた「ある」の世界がダメだとか、「いる」の世界が優れていると言った話でありません。
ヌーソロジーを土台にして生活をするには、両者の違いを知った上で自分の眼差しがどちらを向いているのか?を振り返る事が大切な事のように思います。
つまり私も誰かの視線の中にある、あるがままの私で良くて、そんな私は目の前の風景を見ている、視線そのものでも良いじゃないかですね。
むしろその両方の世界の行ったり来たりの往復が良いのかな?なんて思います。
偶にはこんな風にアレヤコレヤと考えるのも楽しいものですね。
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