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統心ヌースクール#02 「点球の巻A ・ψ1~2」

2025/03/022
今回はヌースクール#2のまとめと感想です。
前回のまとめと感想は、コチラの記事で確認できます。


という事で、今回の本編のライブはコチラです。


(川瀬統心さんのメッセージ)
前回のオリエンテーションは如何でしたでしょうか。
想定内というか、想定以上の好評で反響が大きく、統心としては良い意味でのプレッシャーを感じ始めています。

ここはこの緊張感を味方にして、1回1回を丁寧かつ慎重に進めて行きたいと思います。

さて今回からいよいよ授業の中身に突入ですね。第2回のタイトルは『点球の巻・A』…「点球」…「次元観察子ψ1~2」の領域のことです。

今回の中心テーマは、私たちは「1個のモノ概念」に閉じ込められている…ということです。人間が「広く大きな宇宙」だと思っている概念自体が、実は「1個のモノ」概念だったという、ヌーソロジーとしての一丁目一番地。

この内容を十分に咀嚼し、たくさん味付けして、初心者の皆様にも美味しく召し上がって頂けるような授業にしたいと思います。果たしてどうなりますやら。お楽しみに~。

ヌースクールの第二回のライブも楽しかったですね。
個人的には、前回と比べて内容がグンと難しくなったように思いました。

統心さんは復習が大切だとおっしゃったので、サイト主も録画を何度か見直しました。

と言うのも、初見では分かりにくいと感じた部分がありましたし、統心さんに質問するにしても、何が分からないかを言語化しないと出来ないですからね。

という事で、何度か見直すうちに、それなりに解釈がまとまり、とりあえずの解を得た手応えがあったので、その辺りのお話を少しですが書き出してみたいと思います。

今回の内容も、読者さんの復習のお供や参考になれば幸いですが、サイト主の解が正しいかどうかはわからないので、そこは踏まえてお読みください。


拡大空間のΨ1と、縮小空間のΨ2

ヌーソロジーに出てくるΨ1とΨ2とは、点球次元の方向性の違いになるので、言い換えると、Ψ1と2は、物の中(りんごの中身)の方向性の違いになります。

なので、今回のお話(方向性の違いなど)を日常の感覚を元に考えると、少しややこしく感じる人がいらっしゃるかも知れません。(そもそもリンゴの中に方向の違う空間が有るだなんて思わないですもんね)

サイト主も普通の感覚で捉えていたので、今回のお話を整理するのに少し混乱しました。

ヌースクールは新しい思考で、純粋思考の学校という事ですから、今までの感覚で理解を進めずに、少しずつひも解く形で新しい思考や感覚を掴むイメージで進めるのが良いように思います。

という事で、統心さんのおっしゃる「1個のモノ」をヒントに、実際に存在する「物」の事を考えてみると、物の中は物を見る位置がない(りんごの中から、りんごは見えない)ので、人間は物の中を見る事は出来ません。

つまり、物の中の事は、人間にはそもそも見えない世界なので、実際に確認する事は叶わない、概念で作られた世界だと考える事も出来ます。(これは後々のやって来るΨ7、Ψ8に関わりそうな気がしますね)

つまりΨ1やΨ2の意味や理屈を考えようとしても、中身が見えない上に、通常の思考を使っても掴みにくいものだと言えます。

なので、ここでは、単純に物の中の空間には、無限大と無限小の方向性の違いがあるのだ…でとりあえず納得し、それは全く別の空間として有るのだ…を前提として話を進めてみます。

という事で、Ψ1が無限大の空間を作る力で、Ψ2が無限小の空間を作る力だとしたら、この二つの空間は、何かで区切られない限り、一方は永遠に膨らみ続けるし、もう一方は永遠に萎み続けて、両方とも空間のサイズに果てという概念は存在しません。

ところが、私達の現実世界は、そのような無限や永遠で表現する事が難しい(物差しで距離を測るお話が合ったかと思います)上に、実際の物理的な現象や実験結果が、無限や永遠の世界では無かった事が分かったのです。

そこからプランク定数のお話になっていったと思うのですが、範囲としての単位を設けて計算すると、計算結果が現実に即した結果となったので、人間は無限小に単位という区切りを設け、無限の広がりを堰き止めた言えます。

このように、最小の単位を素粒子として堰き止めた結果が、現実世界に即するものになったのだとすると、宇宙の無限大の広がり(膨張を続ける宇宙)にも、区切りを設けてもいいはずだよね?そうすると、最少と最大が相対するよね?…のお話になっていったかと思います。

例えば、ビックバン思想を元に宇宙の無限の果てを考えると、元のスタート地点(ビックバンの開始点)が、現在の宇宙の果てにあたります。
だとしたら、無限に遠い宇宙の果てには、スタート地点と無限の果てが同時にありますが、違うものとしての区切りを設ける事が出来ます。

このように考えると、「無限の果ての地」=「0(ゼロとかスタート)地点」になり、そのようなイメージを描くと、形としては円環的なモノと言えます。
そしてそのような円環は空間なので、それを形で描くと、「球」の形だと考える事ができます。

このような宇宙の果てと、スタート地点が同じ地点として考える事が出来る「球(空間)」は、私達の知る3次元空間とは言えないので、3次元の球空間よりも、高次な球空間だと言えます。

このように、宇宙の果てと、スタート地点が同じ地点として考える事が出来る「球(空間)」を、3次元空間より更に次元をあげた空間の球空間として考え、そのような球空間に私達の暮らす3次元空間がどのようなものとして存在するのかを想定してみると、このような高次元の球体の表面上にあるのが3次元空間となります。

これが表面が3次元になっている3次元球面の、球(たま)です。
*因みに3次元空間に存在する地球儀は2次元球面なので、そのイメージを踏まえてイメージすると分かりやすいです。

(ゆるぬー漫画では、この回がわかりやすかな?)

ヌースクールでは、ここから3次元球面を二つに分けて考える…のお話になっていきましたね。

このように、最小を素粒子で堰き止め、それに合わせるように、宇宙の果てに無限の区切りを設けます。
そして、それが3次元球面である、4次元の球(空間)とであるとし、さらにその表面(3次元空間)を二つに分けるとするなら、拡大する3次元球面側が空間の最大としての宇宙で、縮小する3次元球面側が空間の物の最小としての素粒子であると見る事が出来ます。

このように考えると、区切りがないはずの無限大と無限小は、双方とも方向性の違う位置で区切られた、閉じられた空間になったとも言えます。(ここで方向性の違いが見えて来ましたね)

とは言え、最大に区切りを設けた4次元球空間のお話は、科学的な計算上の話(アインシュタインの相対性理論を元にした話だったかな?)ともいえるので、体感的や、現実的なものから考えるより、仕組みとか幾何学のイメージに近い世界だと言えます。
(これがヌーソロジーの言う純粋思考の事で、人間の通常思考を超えた思考で考える話に通じるように思います)

私達の現実の認識の中では、最少にあたるものが素粒子で、最大にあたるものが宇宙の果てです。

となると、これを元にして人間が描く宇宙観や世界観は、空間的には区切りの設けた場所の中での考えやイメージであると言えますから、無限と言いながら無限の無い、有限の閉じられた中の世界で物事を見ていると考える事が出来ます。


オモテ3次元とウラ3次元

このような人間の認識や考え方、さらには、一般常識的な世界観の事を、統心さんは「オモテ3次元」と表現されていました。

区切りを設けた、閉じられた空間を無限だとするのがオモテ3次元なら、人間の一般的な常識を超えた(区切りのある無限を超えた)先は、真の無限がある空間になっているのでしょうか?

このような場所が真の無限かどうかの説明は無かったと思いますが、この場所の事を、統心さんは「ウラ3次元」と説明されていたように思います。

「宇宙には果てがある…」

…とは、閉じた宇宙を見ているから、果てがあると想像する事が出来るわけです。

そして、果てがあると感じている感覚自体が、閉じた宇宙を見ている位置にあるからとも言えます。

だとすると、このような感覚の元になっているのが、無限の位置として想定する、無限遠点での意識の働きだと考える事が出来ますので、色々な辻褄が合うように思いました。

つまり、区切りのあるオモテ3次元の概念を当たり前に感じている人は、無限世界の住人とは言えず、閉じられた空間の中に意識を置く住人と言えるわけです。

このような世界観は、現実の世界は有限であり、有限とは一定の範囲の中の世界なので、人間は自ら作った世界観の中に、自分を閉じ込めたイメージで生きている事になります。

これが人間が顕在化させたΨ1とΨ2の世界観と言えます。

この事を言い換えると、人間の思う点球次元とは、最大と最小の概念を設けた、果てが存在する空間であり、例えるならりんごの中の空間のように、外側と内側の区切りを設けた世界です。

なので、人間の考えるΨ1とΨ2の空間とは、物の中の世界だと表現する事が出来ます。

人間が物の中の、閉じた世界で生きているとは、この事を指しているように思います。

オモテとウラの4つの空間

ここで話を4次元球(空間)に戻します。

4次元球(空間)の表面は、二つの3次元球面に分ける事が出来ました。
一つは拡大球空間で、もう一方は縮小球空間でした。

オモテ3次元である、拡大球空間のΨ1を宇宙の果てまで進むと、そこは2次元球面で言う赤道の地点のイメージで考える事が出来て、ここからウラ3次元の縮小空間に進みます。

そして果てである無限遠点で反転し、そこからウラ3次元の拡大空間になると説明されていたように思います。
(無限遠点は、統心さんのお話ではチョコエッグの内側のイメージで説明されていたように思います)

無限遠点や、ウラ3次元の縮小から拡大に転じるお話は、恐らくΨ3、Ψ4のお話の時に詳しく説明されるかと思いますので、引き続き要チェックですね!


感想

という事で、今回は難しかったですね~。

特にオモテ3次元の拡大方向である宇宙の果て(2次元球面の赤道)を、ウラ3次元の縮小に繋げるイメージが難しいのですが、今後の配信で明らかにされていくような雰囲気でしたので、今はあまりイメージを固め過ぎなくて良いかも知れません。

ヌースクール#02回のポイントは、人間は無限に区切りを設けた事と、オモテとウラの、それぞれの拡大球空間と縮小球空間の4つを知る事だと思いました。

つまり果てしない無限の世界を、概念で区切ったかのようなオモテ3次元が人間の暮らす現実の世界として認知されている世界で、その反対であるウラ3次元は、区切る事の出来ない、真の無限が存在している世界と言えるのかも知れません。

そして、ウラ3次元の拡大と縮小の世界は、人間から見れば小さな素粒子の中の出来事であり、それは同時に、決して閉じる事の出来ない、無限に広がる世界の出来事だと言えます。

もし、ウラ3次元の世界観に真の永遠を感じるとなれば、そこが私たちの精神や意識に繋がる場所だと考える事が出来るかも知れませんね。

どちらにせよ、ウラの世界は人間の概念を超えた世界ですから、ヌースクールの第1回の中にあった、潜象界のお話と言って良さそうです。

そうです。
ウラ3次元の世界は潜在化している世界の事であり、ウラ3次元を知り、顕にする事が、ヌーソロジーの顕在化だと言えます。

もし、ウラ側に真の無限と永遠があるなら、私がいつでも私であるといった感覚や、目の前で起こる様々な現象を、自分の出来事として感じられる心は、ウラ3次元に存在しているのかも知れませんね。

だとすると、時空を超えた真(新?)の宇宙が私達の心で、そこがヌーソロジーの言う無限遠点なのでしょうか?

そしてウラ3次元から、オモテ3次元に戻った時の、縮小球空間であるΨ2が、素粒子となって見えているのだとしたら、最大の姿を示すΨ1は宇宙の果てで、最小の姿を示すΨ2が素粒子になりますから、人間はその間の世界で生きているイメージと通じます。

という事で、今回のお話が上手く整理出来たように思いますが、いかがでしょうか?
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