前回のまとめと感想は、コチラの記事で確認できます。
垂質はなんと3回目に突入!…という事で、今回の本編のライブ動画はこちらです。
ヌーソロジーの死生観
ヌーソロジーの一番の特徴と言えば、「自己と他者」についてとことん言及する…と言っても過言ではないでしょう。ヌースクール第9回目は、その自己と他者の話から死生観の話になりました。
まず「死」とは何か。
人間は、ここに恐怖や不安をみますよね。
ここで統心さんは、人間にとって最大の苦痛は「死別の苦しみ」だとおっしゃいました。
人間の死は、肉体や心理的恐怖、そして別れの苦しみや悲しみを纏う…。
改めてその通りだなと思いました。
さて、この苦しみである死別を超えると、その先は何があるのでしょうか。
いわゆる「死後の世界」はあるのか無いのか問題です。
死んだら終わりで、何も残らない…。
これはある意味で、ものすごく潔い感じを伴いますが、言い換えると切な過ぎる感じもしますね。
死の先は何も無い…。
これが、唯物論の概念が描く死の世界です。
一方の、死の先に何あるとか考えるのが、死後の世界は天国だとか、生まれ変わりがあるとする輪廻転生のイメージの世界観です。
では、一体どちらが正しいのでしょうか?
と、このような疑問が浮かんだとしても、見えない世界を科学的な根拠を元にして調べるのは困難な話です。
とは言え、日本では仏教の描く死後の世界(閻魔様がいて、そこで生前の行いにより地獄に行くか天国に行くか決まる)が一般的な死後の世界のイメージのような気もします。
さて。
「肉体の死を超えても、更に意識が続くとしたら?」
このような前提を踏まえて今の世界を生きるとしたら、それはとても理性的な話と言えますね。
言い換えると、お天道様が見ているからみっともない真似は出来ない…みたいなイメージです。
ところが、このような話を軽く超えるびっくり話がオコツト情報としてあります。
一つは、「自我は消滅する」
二つ目は、「魂は不死である」
最後の三つ目は、「輪廻転生はない」
はて。これはどういう事でしょうか。
一つ目の自我の消滅と、二つ目の魂の不滅は似たイメージを描けますが、三つ目の「輪廻転生はない」のだとすると、自我の消えた後のイメージである不死である魂とはどのようなものなのでしょうか?
ここで本編は、更なるオコツト情報が出てきましたね。
『ここから起こる意識進化とは、人間が生きながらにして死後の世界へ入っていくという言い方ができるかも知れません。その意味で言えば人間は不死となります。』
更に、輪廻転生の本質の事を、タカヒマラにおける次元の交替化の事だと言います。
上記を踏まえると、人間の思う生まれ変わりや、人生2周目のような話は、無さそうですね。あくまでドラマや創作話の類なのかも知れません。
因みにですが、死について語った半田さんポストがありましたので、載せておきます。
先日のサロンでの「死」という表現を使うなら、現在、私たちが「生」と呼んでいるものは左側の図の空間で展開している意識のことであり、「死」と呼んでいるものは、右側の図で働いている意識のことです。死ぬと、左側の空間が消滅します。OCOT情報は、このことを「人間の内面の崩壊」と言ってます。 pic.twitter.com/60h7nW8F2a
— 半田広宣 (@kohsen) August 7, 2023
さて。
人間の内面の崩壊とは何の事でしょうか。
ここで本編では「円心関係」の話になりました。
自我とは記憶の連続性であり、連続性とは、目の前の様々な出来事や体験を、一つの記憶として時間を繋げるイメージです。
これらを円に当てはめて考えると、円の中心が出来事や体験を一つに束ねている場所として見る事が出来るので、ここが自我の位置と見る事が出来ます。
そして、円周部分が自我に対する様々な出来事や体験と見る事が出来ます。
これを踏まえてオコツト情報の輪廻が無いを持ち込みます。
そうなると、円の中心点から円周を描くのは、自我ありきの、生きている間の出来事だけになり、それらを記憶として束ねている中心点は、自我が無くなる、つまり死ぬと消滅するはずです。
なので、円すら消えてしまう…というオチになります。
けれどオコツトが言うには、魂は不死のはずです。
という事は、魂の不死=内面の崩壊だとすると、円の中心点が最初に有って、そこから円周を描く順番では無く、中心点が消えても円周が残らないとおかしいですね。
もしも魂が不死不滅で、円周が消滅しないとすると、魂が経験している出来事や物事が円周として先にあって、円周上の様々な出来事纏めているのが、円の中心点になっている…といった方向性や成り立ちの方が合っている感じがします。
この事から、円は中心点があって、円になるのではなく、円周を束ることで中心点が見えて来る…???
えっと、これって、円心関係に見る反転のイメージですよね。
因みに円心イメージを描くのにちょっとした動画を作ってみましたので、よければこちらも参考にお使いくください。
さて、本編ではここで死の別れ話に戻りました。
私達は故人と会う事は二度と出来ないのでしょうか。
だとすると、死別により二度と会えない人になるであろう人達と、私は日常を共に過ごしている事になります。
この事に統心さんは違和感を覚えると言い、この違和感を拭う方向がヌーソロジーの示す「そもそも最初から出会ってないのではないか?」になるのだとおっしゃいました。
私達はまだ誰とも出会っていいない???
まさかのトンデモ論ですが、この話を掘り下げるように、自己と他者についての解説が始まりました。
私達はまだ誰とも出会っていない?
さて、「そもそも私達は生まれてこのかた一度も動いておらず、その上で、誰とも出会っていない」となると、目の前に居る家族や友人は一体誰で、彼らは何者なのでしょうか。どうやらここには垂質次元が大きく絡みそうで、本編では、垂質次元についての解説に入りました。
『Ψ5は人間の内面と外面を結合します』
これは以前の垂子の回でも取り上げられたオコツト情報の一部です。
そして『Ψ6はΨ5の裏側に見えてくる空間領域のことです』とオコツトは続けます。
この事から、一つの物周りに見るΨの3外面とΨ4の内面を結合した空間が、複数の物周りの空間であるΨ5となっている…という道筋が見えて来ます。
そして複数の物周りの空間が、外面として見えている状態が、無数の前が一つに束ねられた前としての空間認識に該当します。
さて、このような前で束ねられたΨ5の裏側にΨ6が出て来る…とは一体どのようなイメージを持てばいいのでしょうか。
と、悩む必要はありませんね。
そもそも私達は中和側の偶数先手で生きていますから、私達が普通の感覚として持っている空間認識で良いはずです。
つまり、自分の周りに物が有る様子です。
これをイメージすると、普通に円を描く様子と同じ事がわかります。
最初に中心点があって、そこから円周を描くイメージをそのままの空間の広がりに当てはめたものが、Ψ6の空間認識にあたります。
この時の円の中心とは「わたし」を自覚している位置の事ですね。
なので、これ(中心点)を自我として見る事が出来ます。
先ほどの、記憶の連続性の位置…といって差し支え無さそうですね。
これらの事を踏まえると、自我は、普通の感覚として持っている私であり、私を通して体験や出来事があって、それを一つの記憶として束ねてはいるけれど、円心で見れば、私の本質は自我では無く、出来事や物事として先に起きている(ある)と考える事も出来ます。
このようなイメージを元に考えると、自己側の垂質である、目の前で束ねられた空間(様々な物とその物々による見えとしての外面)と、自分を中心点とした時に周囲に物々が点在する空間(内面)が別の空間認識になっている事が整理が出来ましたね。
では、ここから私にとっての他者が、どのような形で垂質次元に関わっているか、統心さんの話に耳を傾けてみましょう。
ここでオコツト情報から、垂質のΨ5とΨ6は対化の本質だと言う事が見えて来ました。
なのでΨ5とΨ6を等化するΨ7は、等化の本質にあたるんですね。
さて、Ψ5とΨ6が対化の本質として、Ψ5が自己の前、Ψ6が自己の後ろとしての自我だとすると、自己と自我が対化の本質になるのでしょうか?
ここで半田さんは著書、シリウス革命の中で、Ψ5とΨ6は自己と他者の事だと言いました。
続けて、宇宙における対化の究極は時間と空間でも無く、男と女でも無く、神と人間でも無く、自己と他者との関係に表れている…と。
つまり、「宇宙が存在している事=自己と他者の分離」だとすると、意識進化の本質は自己と他者の等化をいかにして成すか…みたいな話になって来るんですね。
では自己と他者はどのような関係になっているのでしょうか。
ここで半田さんとオコツトによる会話からその構造が見えて来ます。
コウセン:人間の意識が人間の内面(ここでは自我とみて良いと思います)に傾きすぎるというのは、物資的世界を本質と見てしまう意識状態(科学的世界観が世界の本質として見るのニュアンスで良いと思います)の事を言うのですか。つまり、精神的価値よりも物資的価値に重点を置く意識は意識進化が出来ない部類にはいるということなのですか。
オコツト:もちろん、それも部分的には含んでいます。
コウセン:部分的に含んでいる…?どういうことですか?人間の内面とは、確か、人間が物質世界と呼ぶ領域のことでしたよね。
オコツト:はい、自己という存在にとってはそうです。しかし、他者にとっては違います。
(シリウス革命革命p272)
上記のやり取りから、半田さんは自己と他者では、人間の外面と内面の関係が相互に裏返しになっている事に気付きます。
僕が「人間の内面」と呼んでいる空間(物質的世界)は、他者にとっては「人間の外面」(精神的世界)になっており、他者にとっての「人間の内面」が、今度は僕にとっての「人間の外面」となっている…。
オコツトが自己と他者を対化と呼ぶのはこのような空間構造上の相対性が存在するからだ。
(シリウス革命革命p273)
この事を表している図形が、スピリチュアル界隈で有名なあの「マカバ」になるんですね。
⚫︎マカバでを使って空間を思考すること
— 半田広宣 (@kohsen) January 13, 2024
マカバ(ケプラーの星型八面体)は空間を4次元として見るときのカタチです。数学的には3次元へ等角投影された4次元の座標軸が作る図形と言えます。マカバを使うと、空間に入り込んだ観察者を思考していくことができます。… pic.twitter.com/gdFT7UacRM
さて、自己と他者が空間としてひっくり返っているとは?
この事を簡単に整理すると、自己の前は他者にとっては後ろの空間で、自己の後ろは他者にとっての前の空間になっている…という話になります。
ヌーソロジーはおそらく地球に降り立ったノンモです
— 半田広宣 (@kohsen) February 27, 2024
本来的人間は自己と他者という存在が背中合わせの存在であるということを知っています。
自己と他者が背中合わせだということは、自己と他者の間では、前-後方向が逆になって世界が現れているということを意味します。… pic.twitter.com/UjAD2daiIh
ヌーソロジーを歩けば、自己と他者は背中合わせで貼り付いている…なんて聞きますが、まさにノンものような姿で、お互いの空間の認識が背中合わせで重なって、離れずにそのまま貼り付いているんですね。
ここで本編では、垂子次元のΨ3とΨ4を用いて、自己と他者で、瞳孔と視野空間の関係がお互いに反転している話になりました。
⚫︎自己と他者の知覚している空間は互いに反転している?
— 半田広宣 (@kohsen) May 12, 2024
自己と他者が知覚している空間が互いに反転していると言っても、なかなか通じないのが、今の私たの空間認識の現状。ラカンが示した視野空間と瞳孔の関係図を見て、この問題を一人一人考えてみてほしい。 pic.twitter.com/ZRwpZKnZv7
自己の視野空間には、ごく当たり前に他者の姿が見えています。
そしてそれは、目の前に広大に広がっている空間として見えています。
しかしそれらを映している瞳は、他者から見れば小さな点としての瞳孔として見えているはずです。
逆も然りで、私にとっての他者の目は、とても小さな点の瞳孔になっています。
これらも事を踏まえて、複数の物周りである垂質次元を考えると、見る事においては自己と他者は同じ構図で、逆向きになっている事が見えて来ます。
だとすると、円心関係に見る、自我(中心点)と自己(外周を束ねた前)の円の関係性も、お互いに逆向きとして成り立っていると推測する事が出来ます。
という事は、私という自我が作る空間認識は、他者の空間と重なっていて、自己の空間には他者の自我(他我)が重なっていると言えます。
う~ん。
何とも不思議な話ですが、よくよく考えると、私の後ろの空間はどう頑張っても自分からは見えませんので、そうなると後ろは他者の前の空間と言えてしまうんですね。
と、ここで本編ではラカンの鏡像の話から見られる事による自我の話になりました。
人間は鏡(他者)を通して自己(自我)を見るイメージになっているとの事。
人間は、見られる所に自己(私としての自我)を見る…??
ここでオコツトがΨ6の事を他者と呼ぶ事の意味が見えて来ましたね。
私達人間は、他者にとっての前(Ψ*5)の中に、私(Ψ6)としての自己(自我)を見ている。
この事を整理すると、
①自己の前(Ψ5)に他者の姿を見る。
↓
②他者の姿(他者の後ろの空間なのでΨ*6です)を見て、自分も同じような存在だと認識する。
↓
③自分(Ψ5)から他者の姿(Ψ*6)が見えるので、他者からも自分と自分の周りの空間が見えるはずだという認識(自分の周りに空間があると思うΨ6の認識)が生まれる。
↓
④私の後ろ(Ψ6としての後ろ)と、私の前(Ψ*6としての他者の後ろを前として見る)の出来上がり
↓
②他者の姿(他者の後ろの空間なのでΨ*6です)を見て、自分も同じような存在だと認識する。
↓
③自分(Ψ5)から他者の姿(Ψ*6)が見えるので、他者からも自分と自分の周りの空間が見えるはずだという認識(自分の周りに空間があると思うΨ6の認識)が生まれる。
↓
④私の後ろ(Ψ6としての後ろ)と、私の前(Ψ*6としての他者の後ろを前として見る)の出来上がり
う~ん、なんということでしょうか。
私達は、自己の前を、相手の後ろと交換して生きているようです。
この事から自己と他者は一度も出会ってない…みたいな話に通じるんですね。
なるほど、半田さんのポストにあったノンモの像を見れば、確かにそうなっていて、お互いに相手の姿を見る事は出来ない感じになっています。
と、ここで見えて来るのは、お互い前を他者の後ろでは無く、本来の前同士を交換する必要性があるのではないか?という話です。
ノンモのように、人間は背中同士が貼り付いているとしたら、当然、前同士も貼り付いているはずです…よね??
これが四次元の対称性に当たるのなのかな??
と、これらが見えてくると変換作用が働く領域のΨ7、Ψ8の球精神の次元に入っていくイメージになる…と見て良さそうですね。
ホログラフィー原理に見る自我とは?
ここから本編ではホログラフィーの話になりました。(本編で紹介された動画はこちらです)
ホログラムは一つの光を分けて作るそうです。
統心さんの解説によると、物体にあてた物体光と、もう一方の参照光との干渉縞を感光材に記録し、感光版に参照光のみを当てることにより、立体的な像を再生する…このような仕組みになっているとの事。
言い換えると、干渉を起こした片割れの物体光を、再生像として見るイメージになるのかと思いました。
と、ここで統心さんが「もにゃもにゃ」と感じる事があったようです。
統心さんの「もにゃもにゃ」をまとめるとこのような感じです。
①元々一つだった光をΨ7として、これを二つに分ける。(Ψ5とΨ*5へ分光)
↓
②一方(Ψ*5)を物にあててフィルムに当てます。(物体光)
↓
③もう片方(Ψ5)はそのままフィルムに当てます。(参照光)
↓
④ここで、②の物体光を他者の視線だとすると、物は、見られている私としての「Ψ6」に当てはめる事が出来ます。
↓
②一方(Ψ*5)を物にあててフィルムに当てます。(物体光)
↓
③もう片方(Ψ5)はそのままフィルムに当てます。(参照光)
↓
④ここで、②の物体光を他者の視線だとすると、物は、見られている私としての「Ψ6」に当てはめる事が出来ます。
ここで感光板に記録された私の像が出来上がりますね。
さて、感光板に参照光(Ψ5)を当てると、ホログラフィーの像が浮かび上がりますが、これは先ほどの物体光(Ψ*5)が映した私の姿である「Ψ6」になっている…。
う~ん。
統心さんは難しい事を考えますね。
さてさて、話はここで終わりません。
そうです。感光板である記憶フィルムは一体何にあたるのか?と言う疑問が浮かびます。
ここから統心さんの推論が続きます。
ホログラフィーの仕組みを踏まえると、見られている像である自我象(Ψ6)を映すフイルムは、参照光(Ψ5)を当てる事により像が浮かぶ理屈になります。
だとしたら、そのフィルムは私が見る(Ψ5)場所にないと自我像を映す事は出来ません。
…つまり、私が見える側に居る他者が持っている???って事???
ここから更に話を広げて、ホログラフィーに見る様々な見えの変化は、他者が持っている様々な自我像である事も見えて来ます。
言われると、確かに私と言う自我は、変な意味でなくても相手によって像が変わります。
ある時は、通勤客で、ある時はコンビニのお客さん。会社に行けば役職で呼ばれ、家に帰ればお父さんであり、伴侶である…といった具合です。
このような具合で、自我像を移すフィルムは他者が持っているのだとすると、自我は私の所有物だとは言い難くなりますね。
言い換えると、 自我の像の元は他者側にあって、自己としての参照光(Ψ5)を当てる事で、現れる虚ろな像のイメージとも言えそうです。
更に言えば、それはいつでも他者が持つ断片で一部であり、それらを寄せ集めたものがΨ6とも言えます。
ここで心霊現象として見える霊はこのような仕組み…なのかも?といった話になりましたかね。
まとめ
いやぁ、今回も激ムズだったんですが、みなさんはいかがでしたか?サイト主としては、こうしてここに纏める事でなんとか追いかける事が出来たかな?といった具合の濃厚な回となりました。
という事で、今回のまとめです。
①自己と他者は宇宙の対化である
②自我は他者の記憶を元に、自己よって映し出された像のようなものである
③魂の不死は、人間の死の事で、それは自我の消滅と人間の内面の崩壊の事である
④輪廻は宇宙の交替化の事である
②自我は他者の記憶を元に、自己よって映し出された像のようなものである
③魂の不死は、人間の死の事で、それは自我の消滅と人間の内面の崩壊の事である
④輪廻は宇宙の交替化の事である
何と言いますか、「自我の消滅や、内面の崩壊=私が消える」の式が違って見えてきたのですが、皆さんはどうですか?
サイト主としては、消滅する自我を、「いつでも今、どこでもココ」にある私とは違うイメージを描けたの事が大きな収穫でした。
コメントを投稿
別ページに移動します