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統心ヌースクール#10「球精神の巻A・Ψ7~8」

2025/08/06
今回の記事はヌースクール#10のまとめと感想です。
前回のまとめと感想は、コチラの記事で確認できます。


球精神も3回続くようですね!…という事で、今回の本編のライブ動画はこちらです。


それでは早速内容を追ってみましょう!



「NotebookLMによるヘキサチューブル談義??

ヌーソロジーの言う宇宙の根源とは「自己と他者」で、統心さんが最初に掲げたのは「"あなたはわたし"を感情論ではなく空間認識に」でした。

ここからヘキサチューブルの図の解説に入りました。

(ヘキサチューブル談義はYoutubeでも公開されています)

本編では、NotebookLMによる解説が流れていました。

彼らの会話によると、ヘキサチューブルで表現されている事は、「観察子構造の次元は(点球・垂子・垂質・精神球)は階層でありながら、重なり合っている事」が大きなポイントになっていました。

そして球精神の立ち上がり方を上手く言語化していました。

・表層の等化→自己と他者の「見え」が同じになる
・位置の変換→観察視点を自分からモノの方へ移す
・アイソスピン空間
・SU(2)
・全ての人間の記憶が横行している場
・集合意識がモノに

話は続いて…

・自他一体(共感)と区別
・地球との関係
・地球は精神球? ・ヌースフィア

このような感じで、取り上げていました。

更に、地球そのものが精神的な球体になっている…という話題になり、このイメージ(感覚)を得るのに、

・垂質を一本の線に
・眉間鉛筆実験

などを挙げてくれました。
いやぁ、AIって凄いですねぇ。



自己他者関係の復習

AIによる球精神談義に続き、本編はここから復習に入りました。
前回の内容では、自我同士の交流や関係は鏡象交換になっている…と、そんな話がありましたね。

さて、ヌーソロジーでは、自我と自己の違いをどのように区別しているのでしょうか?

ヌーソロジーの言う自己とはΨ5の事で、ここは人間の内面と外面(Ψ4,Ψ3)が等化している状態と言えます。
一方の自我はΨ6であり、こちらは人間の内面にあたります。
内面とは先ほどのΨ4のような「後ろ」や、「見られている(他者の視点)」空間の事です。

統心ヌースクール#10「球精神の巻A・Ψ7~8」

(ここで記載している「*」は他者側の記号です。自己側と区別する為に付けられています)

Ψ5は外面にあたります。
外面とは「前の空間(自己視点)」のイメージなので、Ψ5における自己とは、外面(前)でありながら、Ψ3とΨ4を等化していると言えるので、前と後ろの空間の違いが見えている事も、条件みたいな感じがします。

自我がΨ6だとすると、自我とはΨ5から「人間の内面へ傾いた状態」…と見て良さそうです。つまり、他者(Ψ*5)の視線が優位になっている状態とも言えますね。

さて。
人間の内面へ傾いた状態の具体的なイメージとして、かつての半田さんは、内面へ傾いた状態とは、物質世界を本質として見てしまう状態で、精神的価値より、物質的価値に重点を置く事ではないのか?とオコツトへ投げかけたようです。

ここで肯定が返ってくるかと思いきや、オコツトの返事は実に興味深いもので、「部分的に含んでいます」との事でしたね。

この「部分的」の文脈には、先ほどの陰陽の図にあるように、「自己と他者の関係」が大きく関わっている…という事になります。

端的に言うと、自己(Ψ5)にとっての内面(Ψ6)は物質的な世界観になっていますが、他者(Ψ*5)にとっての自己の内面(Ψ6)は、物質的な世界観では無い…という事になりますね。

ここで少し余談ですが、自我(Ψ6)が「(他者に)見られている自分像」で、これがΨ6の中心点になっているとしたら、自己(Ψ5)は見られている像(Ψ6)が現れる前より先に立ちあがっている…といえますね。

という事で、一般的な空間の感覚であるΨ6からΨ5への反転や、自我より先に立ちあがっている空間とは何ぞや?を考える際に可視化しやすくしたのが下記の動画ですので、こちらも参考になれば幸いです。


さて。
このような2つの空間の関係性が見えてきたら、普通の感覚として持っている、肉体を中心に広がる(Ψ6)とは違う、全く別の空間が隠れている事に気が付きます。

とは言え、(普通の生活感覚とは違う)別の空間を体感に上げるのは簡単ではないのですが、ヒントになるキットカット実験を見ていると、見えの変化を束ねている、全く動かない、「前」としての自己の視線に気が付きます。


(前で束ねているイメージ動画もありますので、こちらも参考にどうぞ)

このように、視線(物を見る方向)が前の様々な見えの違いを束ねているとしたら、前の反対側の後ろ、つまり他者の視線(見られる方向)が自己の後ろを束ねている…と言えます。

自己にとっての「前と後ろ」
全く方向性の異なる二つは、実は自己と他者のそれぞれの前になっているので、ここでヌーソロジーの言う「対化」のイメージと重なってくるのも面白い所です。

さて。
先ほどの、半田さんとオコツトの会話にあるように、「部分的に含んでいます」から見てくるのは、自己の内面(後ろ)が他者にとっては外面(前)になっているいう当たり前の事実です。


このような自己他者のキアスム構造が見えてきたら、自己と他者のそれぞれの前は、それぞれの他者の後ろが含まれている事もはっきりと見えて来ます。

この事実から話を広げると、冒頭にあった自他の鏡像交換の関係が、見られている空間である内面同士の交換になっているとしたら、外面同士も交換がしているハズ…と、そんな推察も可能ですから、ここに球精神の大きなカラクリが見えて来ますね。


「自他一体」という空間構造を地図化する

本編の後半戦は、球精神を捉えるアプローチの話になりました。

本編で統心さんが取り上げてくださったのは「眉間鉛筆実験」です。
この実験は、「動いているのは外」の認識を強める実験との事。

「私は生まれてこの方、一度も動いていない」といったニュアンスの言葉を、半田さんの研究所の動画で聞いたような気がするのですが、そもそも「自分が動いている姿」とは、誰かが見ている視線の中にある私の姿…つまり客観的な空間の中の出来事になっています。

客観的な空間とは、主観の見ている空間とは別の、見られている空間の事でしたね。

客観的な空間とは、先ほど陰陽図で見ると、Ψ*5(他者の視線)の中にあるΨ6(自分の姿)ですから、客観的な空間の主は他者であり、自我でもあると言えそうです。

このような、他者の視線や、見られる自分が居る、客観的な空間から脱出する訓練としてあるのが眉間鉛筆実験なのかと思いました。

この実験を通せば、眉間に鉛筆を奥行き方向に置いて、そのまま様々なものを見ると、右を向いても上を向いてもどこを見ても、視野空間の中には、真っすぐな鉛筆(視線の線分)がいつも有る事が分かってきます。

この時、何処を見ても前を示す鉛筆が常にある事を思えば、どんな前にも、自分の視線が中心となっている事が体感的に見えて来ますので、これが不動の前のイメージですよ!…といった具合の実験のようです。

とは言え、このような実験を通しても、頭でわかった感じを超えて、体感的に前の空間へ飛びこむ感覚が大切な事ようです。
ですが、飛びこむ感覚を言語化するのは凄く難しいと思います。

サイト主もわかったような、わからないような感覚なので、あえて言葉にすると「前は前しかないやん?」みたいな、ふわっとした表現になっちゃいます。

取りあえずは、「不動の前はこんなもの」という程度で整理しつつ、時々立ち止まって、「前や後ろは、何をもって前であり後ろであるか?」を考えるのも面白いかも知れません。

さて、本編を進めて行くと、不動の前があるなら、反対方向には不動の後ろがあるよね?という事が見えてきました。(後ろは見えないですがね)

今までの内容を踏まえながら実際に前を見ると、前と後ろの空間は、表裏一体のイメージと同じく、同時に見る事は出来ません。(これは物凄く当たり前ですね)

この事から、見える空間の裏には、オセロのコマのように、見えない空間がひっくり返った状態で表裏一体となっており、この事を言い換えると、見える(前)空間が表だとすると、その裏側は、他者の見える空間(後ろ)がひっくり返った状態になっていると言えます。

そして、私達は前と後ろの空間の違いや区別を殆ど認識していません。

そもそも一般的な空間のイメージは、自分達は巨大な宇宙空間の中にいて、この空間の中を動いている認識です。(これは見られている意識の空間にあたります)
私達は後ろの空間を前の空間と誤認している状態が当たり前の感覚になっているので、このあたりの話も、じっくりと頭の中で整理する必要があると思います。

また、自己にとって不動の前と後ろがあるとしたら、当然、他者にも不動の前と後ろが有るハズだ…と考える事が出来ます。

よくよく考えると、自己の前(奥行き)に他者を見れば、自己の前と他者の後ろが重なっている事実は、普通に見えていますし、ここから自己の後ろは、他者の前と重なっている状態と考える事が出来るので、自己他者を通せば、前後の違いは簡単に整理がしやすくなります。

このような自己と他者の間に現われる、前と後ろの関係に気が付くと、キアスムになっているそれぞれの空間が、実は全部重なっている事が薄っすらと見えてきます。

さて。
このようなイメージで、自己他者の前後それぞれが一つに重なった空間(先ほどの陰陽図の事です)として現れたものが、「球精神」になるようです。

また、球精神で現れる他者とは、垂質次元とは違い、「無数の他者」として現れている事もポイントになっているのでは?と思いました。

振り替えると、自己の見る見られると(Ψ3,Ψ4)、他者の見る見られる(Ψ*3、Ψ*4)の等化は、垂質次元でしたね。

そこから、自己他者の双対の4つの空間(垂質)に対し、垂子と同じように、垂質を見ると、垂質から見られる視線があるとすれば、見られる方向の視線は、自己他者から見られている視線とも言えます。

これだと他者を見る者が自己以外に居る事になります。
(他者の他者のイメージで見ると分かりやすいかも知れません)
このように、自己他者の関係を見る、新たな別の他者を置けば、それは無数の他者として考える事が出来ます。

と、上記はあくまでサイト主の勝手な考えですが、自己他者(垂質)に対し、見る見られるを想定する他にも、他者を見ている者が、自己である必要は無く、他者の他者であっても良いとするなら、ここにも無数の他者を置く事が出来ます。

余談はさておき、本編ではシリウス情報の話になりました。
ここで、一つのものを取り巻く無数の主体として、自己と無数の他者の図が球を囲む図が出て来たかと思います。

例えば、円卓に座る家族の前に麻婆豆腐のお皿があるとしたら、多数の人間が囲んでいる一つの麻婆豆腐だと考えるのが普通だと思います。
しかし、オコツトによれば、「位置の変換(Ψ7)が起こり始めると、進化の方向性が顕在化するために、その関係性が反転した空間も見えてきます」と言う事になるらしく、どうやら変換人は、一つの麻婆豆腐の中に、先ほどの自己他者のキアスムが見えているようです。

う~ん。
麻婆豆腐が自己他者の関係に見えるって、ちょっと面白い話のように思いますが、実際に麻婆豆腐を作る工程を考えても、多くの人の手が関わっている事は簡単に想定できますから、そのような多くの人が介在したモノが自分の目の前に現れたとすると、麻婆豆腐に妙な神秘性を感じてしまいますね。

ここから本編では、「一つの物に対して無数の主体が居る」というのは、人間型ゲシュタルトに当たりますから、変換人を目指すなら、対象(麻婆豆腐)が一つなら、主体側も一つ(一人)として感覚されるとか、そのように感じてくる事が意識進化の正しい方向性になるとの事。

続けて、このような感覚(対象が一つなら、主体も一つ)を持つ(顕在化する事)によって、人間の内面としての自我の位置は殆ど意味を失うとの話になりました。

これが自我の消滅になるのかな?
と言っても、このような感覚が当たり前になるのはとても難しいと思いますが、私が見ている麻婆豆腐と同じ麻婆豆腐を家族が見ているといった、いわゆる普通の感覚とは違う、全く別の感覚を併せ持つ事がポイントだと思います。

ここでサイト主は考えました。
これって、端的に同じ色は見えていないとか、同じ音として聞こえていないみたいな話にも通じそうですよね?

因みに印刷業界や建築関係でも、色を合わせる場合は、「色の見本」があって、それを基準にしています。

色に見本が有るという事は、それぞれの人が見えている色は、その人の感覚に委ねられている事を前提にしているようにも思えますし、そもそも、自分と他人が全く同じ色を見る事は出来ないという事実があって、混乱を避ける為に色見本が出来たのだとしたら、誰が見ても全く同じのものは存在しないかも?と思えるので、こうなると、今までの感覚や常識を疑ってしまいますね。

という事で、自分と他人は全く別の物が見えているかも?として物が見えている事を改めて問うと、「みんな同じ物を見ている」から「全く別の物が見えているかも…?」になってきます。

さて。
本編では、オコツト情報の紹介が続きました。
オコツトによると、球精神のΨ7は「位置の変換」に当たるとの事。

統心さんによれば、Ψ7は素粒子側で非局所で、光源にあたるそうです。
そしてΨ7の反映であるΨ8「位置の転換」は、時空側で、局所で残像に当たるとの事。

自己他者のキアスムを等化したのが球精神だとしたら、球精神は、自己と無数の他者の前や後ろが入り乱れているような感じもします。

そして球精神の入り乱れた前後を整理すると、自己と無数の他者の前…つまり人類全体の前と、人類全体の後ろとへと分ける方向になります。

半田さんによると、人類全体の前を結合したものがΨ7で、反映にあたるΨ8は人類全体の後ろを結合したものと考える事が出来るとの事。

これは、「自己の前(他者の後ろ)と、自己の後ろ(他者の前)」、「他者にとっての前後」、「他者の他者にとっての前後」のように、あらゆる人の前後の入り乱れのイメージが球精神になっているとしたら、自己の前にある自己にとっての麻婆豆腐の中は、自分の前と重なるように人類全体の前が入り込んでおり、自分の背中である後ろは、人類全体の後ろがあると考える事が出来ます。

この事から、球精神のΨ7は、見る者全ての前が物側(物の中)へ移動したイメージになり、反対のΨ8は、物から見ている者を超えて背後へ拡大する、物から広がる空間のイメージになります。

と、これって点球のイメージだなぁと思っていたら、流石は島津さん。
統心さんへ質問されていましたね。

統心さん曰く、Ψ7が点球で、Ψ8は天球の事。
ここは改めて説明して下さるようです。

さて、オコツト情報によると、球精神の中は「すべての人間の記憶が横行している」との事。つまり球精神は持続の集合場所のようなもの…になるようです。


ここにきて、上記のオコツト情報がひも解けたような気がしますね。


SU(2)とモノの等化

ここまでの話を踏まえると、物には人類全体の前が詰まっている(と、こんな表現で合ってるのかな?)事が見えてくるのですが、そうなると物側から言わせると、物にはありとあらゆる人の記憶や経験が縦横無尽に詰まっている事になります。

その上で、多方面からやってくる無数の人の前が、物を見ている私の視線と重なるような形で、物の中でありとあらゆる前が束ねられている…と、こんなイメージになります。

本編では、前を束ねるイメージを地球儀を用いて説明がありました。


物が回転する事で、観察者(自己と他者、無数の他者)の前(見る事)と、物の表面の見え(表相)を等化している…と言えます。
実はモノって高次元なんですね~!

そして、ヌーソロジーを歩むうえで難解な「SU(2)」の話になって来ました。

ここで統心さんは、「チョコエッグ」の話から、メビウスの帯の720度回転の説明に入りました。
そう言えば、点球次元の回で、宇宙の果てで宇宙の裏側に入って、更に裏返って元の位置に戻って来る話がありましたね。


上記の動画を以前のまとめ回でご紹介したかと思いますが、動画の観測者が私(時空の位置で物を見ているので自我)だとすると、自己は自我からは見えないウラ3次元側として考える事が出来ました。

この動画の中にあるように、、時空宇宙の果ての光速度を超えた場所から、素粒子の中までが自己の世界みたいなイメージです。

そして自己他者のキアスムをここに当てはめると、「私(自我は他者から見られている私です)=他者の前」は、オモテ3次元にあたります。
このように考えると、自己と他者はメビウスの帯の関係になっている事が整理出来ますね。

そしてメビウスの帯の大円(720度回転)が、3次元球面の回転(SU(2)対称性)と同じだとしたら?

量子力学に見る「SU(2)」とは何ぞや?って事になって来ます。

また、球精神としてのモノは、自己他者の前と後ろが無数に入り乱れているイメージでしたが、モノが回転する事により、自己の前と重なるように、あらゆる人の前を物を束ねる事が出来ましたので、球精神として見えているモノは、3次元の球体(2次元球面)では無く、720度回転している3次元球面として考える事が出来ます。

また3次元球面の回転の様子が、メビウスの帯のように、オモテとウラを言ったり来たりしながら、オモテとウラは決して同時に見る事は出来ない(同時に現われない)事を考えると、球精神としてのモノと物を見ている私の関係性も今までとは違って見えて来ます。

物には見える側(外面)と見えない側(内面)があります。

そして私(自己)が見える側(面)は他者からは見えないし、他者が見える側(面)は私(自己)から見えない。
…このような捻じれもスッキリ整理出来たかと思います。


まとめ

今回は過去一の難題回になったと思いましたが、皆さんはいかがでしたか?

個人的には、今回のレクチャーでは、半田さんの著書からの引用オコツト情報、更には半田さんのポストなども多く取り上げてくださっていたので、文面を追いかけるだけでも大変でした。

とは言え、今回は3回あるうちの1回目ですから、数回に分けて徐々に整理が出来たら良いなと思います。

そして「自他一体」とは何なのか?がまだ謎のままかな?と。
これは次回以降に期待ですね!

という事で、まとめです。

①観察子構造の次元は(点球・垂子・垂質・精神球)は階層でありながら、重なり合っている

②球精神は、自己と無数の他者(人類全体)の「前と見え」を回転により束ねる事が出来る

③球精神は、人類全体の記憶の場である

④自己の内面は(無数の)他者によって支えられており、(無数の)他者の内面は、自己が支えている

⑤球精神は、素粒子と見なす事が出来る

個人的に「球精神=地球」の話が好きで、漫画にも取り上げた事が有ります。


こうなると、球精神が概念の生成をして、ここから言葉が生まれるイメージになるので、これも人間の感覚とは逆方向のように思いました。

いやぁ、観察子って全部繋がってますねぇ(笑)

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