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統心ヌースクール#11「球精神の巻B・Ψ7~8」

2025/09/08
今回の記事はヌースクール#11のまとめと感想です。
前回のまとめと感想は、コチラの記事で確認できます。


球精神の巻、第2回目!
テーマは「一即多、多即一」という空間感覚へ…という事で、今回の本編のライブ動画はこちらです。


それでは早速内容を追ってみましょう!


準備運動的復習

まず準備運動として「悟り」の話になりました。
準備運動でいきなり「悟り」とは、開始早々エンジン全開フルスロットルって感じです。

さて、「人類が神を見る日P101-102」によると、「悟り」とはオリオンのおける負荷で観察精神に入る事のようです。

そして観察精神とはΨ13にある次元の力と方向性との事。

オコツト曰く、お釈迦様の意識は覚醒球領域(Ψ8)に位置させれられており、イエス様も同じ位置との事。
…という事は?で、コウセンさんが宗教の事を尋ねると、「変換期の知識を人間の意識が歪曲化させたもの」と言う事らしく、ここから推測すると、宗教で悟った人間はいない?って事になります。

オコツト曰く、釈迦やイエスのような聖人達の意識は「人間の意識として覚醒を見た」という事らしく、覚醒を起こしたとはい難いようです。

更に言うと、人間の意識に覚醒が起きる為には付帯質の力、つまり物質的な思考が必要なのだそうです。

つまり、人間が悟りに至る為には、感覚的な抽象的な概念で至るのは難しく、物質的な思考…いわゆる科学や物理学のような知識や論理的な要素の積み立てが必要だという事のようです。

さらに言うと、覚醒期においてでしか覚醒は起きないとの事。
また、個体の覚醒は無いらしく、個体が覚醒すれば全ての個体に伝播するようなので、「誰かが覚醒した」や、「私は覚醒者だ」といって名乗っている人の事はオコツト的に言うと「人間の意識で覚醒を見た人間」になるので、人間はまだ誰も覚醒していない…つまり誰も悟ってはいないのだそうですよ。

と言う事で、「伝播する」から推測すると、今回のタイトルにある「一即多、多即一」の意識が悟りの入り口とも言えそうです。

また、先ほどのオコツト情報を踏まえると、悟りとは奇跡的なモノでは無く、常識として多くの人間の感覚にあがっている(あがってくる)モノと言えそうです。

ヌーソロジー的に言えば、物質と精神が素粒子で結びつくとか、自己他者は同じ空間を見ていない、更に言えば、外に時空的宇宙は無いので、宇宙人は居ないみたいな的な事が当たり前であり常識になっている世界観ですが、こうなると、今とは真逆の世の中のように思いますので、是非、生きている間に見てみたいものですね(笑)

さて、ここでスピリチュアルでも聞き慣れた言葉が出てきました。

観察精神は、オリオンの領域
覚醒球は、シリウス(の領域?力?)
人間の時空の領域は、プレアデスの領域

プレアデスといえば、「星はすばる」が有名ですね。
昴とはプレアデス星団の事を指すそうですが、夜空の星々を「昴」(総べるが語源のようです)として表現した感性というか、まとめ上げた日本語の底力を感じるフレーズだと思いました。

と、余談はさておき。

本編は観察子構造の復習に入りましたね。
観察子構造は、それぞれの階層を球(体)として考える事が出来ます。

点球(Ψ1~2):一つの物の内部空間
→モノの内部の場所性・人間の内面の対化

垂子(Ψ3~4):一つの物の周囲の空間
→モノの内部と外部の場所性・人間の外面の対化

垂質(Ψ5~6):自分の周囲の空間
→自他の場所性・変換人の内面の対化(自他の関係)

球精神(Ψ7~8):無数の人の周囲の空間
→集合的主体と客体の場所性・覚醒の対化

●Ψ1マクロ方向(空間) ー Ψ2ミクロ方向(時間)
↓等化:位置の交換

●Ψ3人間の外面(主体、前、観察空間) ー Ψ4人間の内面(客体、後ろ、肉体のある空間)
↓等化:位置の等化

● Ψ5自己(非局所・位置の等化) ー Ψ6自我(局所・位置の中和)
↓等化:位置の変換

● Ψ7集合的主体(球精神・位置の変換) ー Ψ8集合的客体(覚醒球・位置の転換)
覚醒の対化

ざっと記載しましたが、上記の空間はそれぞれ階層が違う(次元の違いがある)という事を覚えておくと良いようです。

ここで本編で(見る意識の)「視線」についての話になりました。
始点である私の目と、目の先を繋ぐ視線に、線分的な距離が見えるのは、他者の視界にある、「私の目と物の間に距離が見える世界」の事です。

私の(視線の)先にある物と私との距離は、私から見る事は出来ず(感覚として何センチしかない)、これを数学的な虚数だとして虚軸と考えると、虚数の世界…つまり私が見るの世界に実数にはありません。

この事を踏まえて、虚数の世界は実世界ではとても小さなマクロ…つまり素粒子の世界になっているとして考える事が出来るようです。

ここで虚数の虚軸の世界と、実数の実軸の世界として、二つの性質の異なる世界が見える訳ですが、視線に距離が見える(あるのは)実軸の世界で、他者の見える世界。
視線自体に距離の持てない虚軸の世界は自己の世界…と整理が出来ます。

続けて自己他者のキアスム構造の話になりました。

前回で持ち出したこちらの図を用いると、
統心ヌースクール#11「球精神の巻B・Ψ7~8」
自己の中に他者の自我があり、他者の中に自己の自我があるとして見る事が出来ます。

上記の図では、Ψ5とΨ*5が繋がっているので、自我同士である後ろ同士(Ψ6とΨ*6)の世界では他者との繋がりを持てない…のかも知れませんね。

ここから背中合わせの自己と他者の姿としてノンモの像が出てきましたが、私達が前だと勘違いしている実軸の世界である時空は、本当は後ろ側の世界でΨ6とΨ*6なんですね。

少しややこしくしているのは、本当の私達の前の空間であるΨ5とΨ*5は、時空を前としている世界では後ろになっているので、ノンモの背中合わせで貼り付いているイメージが主観同士の自己他者として「時空に置いて正しく表現さている」…と言う事ですね。

ここで自己と他者を繋ぐモノとして、文字通り「モノ」の話になりました。

モノ自体はは点球次元の「物」と重なっているのですが、私達の本当の前が虚軸で虚の世界だとすると、ミクロに縮んだその世界は「モノの中」にまで縮んでいる…と言う事になります。

ここで無数の人間が同じ「物」を見ている時、無数の人間の前が縮んだ空間として、物の中でもある「モノの中」になっている…と考える事が出来るようです。

また「物が回転」する事により、無数の人間の前(の見え)が等化出来るとして考えると、、物を物体として見るか、無数の人間の前としての精神の詰め合わせみたいなイメージを持つかで、物に対する「モノの見え方が変わる」という事ですね。

サイト主としては上手く言語化出来ないのですが、自己と他者の一体の空間の事や、自我が無くなるという趣旨の話は、「モノの中」での出来事で起きると考えると、
『自我は物の外にあり、自己と大勢の他者はモノの中で既に出会っている』
としてイメージが出来ました。

ここから、自我としての生活している場所と、大勢の他者と出会っている自己の場所(モノの中)というように、自我と自我とは違う何かは、別の空間に生きている違う生き物のような感じがしています。ちょっと不思議な感じですがね。



個と全体とモナロドジー

後編の始まりはゼノンの「連続体の問題」の話題になりました。

「アキレスと亀」のお話は、亀を捕まえる為にアキレスが亀を追いかけますが、亀が居た場所(亀から見れば目的地への途中の地点)を探しに行っても、その間に亀は別の場所へと進んでいるので、アキレスが亀の居たであろう場所へ行ったとしても、亀は既に居ない…というお話のようです。

これは迷子になった我が子を探して、目撃情報にあった観覧車へ行ったとしても、既に我が子はメリーゴーランドの前で馬に釘付けになっていて、観覧車の前には居なかった…みたいな感じですね。

次の「飛ぶ矢は飛ばない」のお話は、飛んでいる矢の中間地点を取り、その中間地点から的までの中間地点を取る…といった具合で、永遠に中間地点は無数に存在し続ける…といったお話のようです。

また、上記の中間地点の、とある地点に、矢の長さだけの区間を設けると、ここを通過する矢自体(区間全体の長さを矢がを占めている状態)は、飛んでいると言えるのか、若しくは止まっているのか?といったお話へと展開できるようです。

これは瞬間的に短い時間(距離)であれば、止まっているように見えると言えるので(写真として被写体を写す、その瞬間的な短い時間イメージ)、その瞬間(写真)だけを見れば、飛んでいる途中の矢なのか、ただ単に止まっている矢かどうかの見分けがつかない…といった話として解釈ができるようです。

ここから点をどれだけ集めれば線になるのか?といったお話になりました。

点が集まって線になる…この一般的なイメージは誰もが持っていると思いますが、数を尋ねられると、点と線の関係が急に怪しくなりましたね。

ここで統心さんは、部分の足し算で全体を作る発想だと、実際は線も作れないので、上記の問いかけ自体が間違っているとおっしゃいます。

上記の問いかけの間違いとは、「部分から全体を作る」事への疑問そのもので、自然界に最初にあるもの個なのか全体なのか?とどちらが先なのか?と統心さんは問いかけます。

例えば、樹木の1本は森の中で育まれていますが、その個体の経験は体内の年輪として刻まれていると言えます。
年輪が外の環境を映している(時間の流れとか生育環境の意味で良いと思います)のだとすると、外の環境を体内に刻む=内包しているとして考えると、樹木自体は周りの森に包まれてると言えますが、その森の環境を樹木は内に包むかのように成長している…と言えます。

ここから人間の皮膚や手足や細胞を、先ほどの森と樹木の関係に置き変えると、小さな細胞1つが体全体の情報を体験している…と言えます。

また上記の事を音楽で考えると、音の一つを一つをバラバラに分解したものは、音楽として成立するか?という話になりましたね。

フッサールやベルクソンが言うには、音は常に前の音を含み、次の音を予期している流れにあると言ったそうで、音の一音としての部分は、音楽全体を含んでいると考える事が出来るとの事です。
因みに統心さんとしては音楽は思い出しなのだそうですよ。

最小が全体を含んでいる…この仕組みや原理が有る事に気が付くと、個と全体の関係性に、全体の中に個がある事と、個の中には全体が含まれいる構図が見えて来ます。
ここから「(全体を)包まれつつ包む」のイメージが生まれ、これを有機体的構造と言うそうです。

点を集めても線にならない…ここから見えてくるのは、部分が先に有るのではなく、全体が先にあるとの発想で、全体を構成する部分による連続体が、完全な存在として考えるのが、ライプニッツの「モナロドジー」なのだそうです。

モナロドジーとは、完全な存在は、複合体(有機体・連続体)であり、そうでないものは半存在としての集合体であるとし、この二つを明確に区別する哲学的な空間的理解との事。

ライプニッツはこの関係を、全体を内包する構造として「モナド」と解きました。

このようなライプニッツのモナロドジーを踏まえ、モナドとしての構造を観察子にあてはめると、「Ψ7を集合的主体」、一方の「Ψ8を集合的客体」と見る事が出来ると統心さんはおっしゃいました。

という事で、自我の集まりである集合的客体はΨ8として見る事が出来ますが、これだと半存在になっちゃうって事ですね。

一方の完全な存在としてある、個体と全体の「包まれつつ包む」における「自多一体」を見ると、これは集合的な主体と言えます。
集合的な主体とは、「無数の人の周囲(前)の空間」であるΨ7として見る事が出来るので、モナド的構造から観察子構造のイメージが見えてきた気がしますね。

Ψ7は主体の総体で、これが「位置の変換」にあたり、Ψ8は「転換位置」にあたるとの事。

ここから統心さんは観察子構造の理解を深める為に、「モナロドジー」について詳しく説明して下さいました。

さて、全体が先にあるのだとすれば、個は一体どうなるのか?
この事を徹底的に考えたのがゴッドフリート・ライプニッツとの事。

彼が提唱した「モナロドジー(単子論)」は、それ以上に分割出来ない究極の実体を「モナド」として、このモナドは精神的であり、延長を持たず、非空間的な力の個体だといいました。

何だかモナドって私達の個体的な精神そのもの…というイメージを持ったのですが、皆さんはいかがですか?

ここで「モナド」の定義についていいくつか紹介して下さいましたので、ここに記載しておきます。*( )内は補足的に書いたものです。

①モナドは単純実体:部分を持たず、他に依存しない。

②宇宙はモナドから成る:この世の複合的なすべての存在は、究極的にモナドの集合である。(複合を分解し尽くした先にあるのは単純実体のモナドだから)

③分割も結合もない存在:モナドは部分を持たないので、分割も出来ない=壊れる事がないので永遠である。

④生起も消滅もない:モナドは永遠で不変なので、生じないし消えない。もし生まれるとしたら一斉に生まれ、消えるとしたら一斉に消える。

⑤内的変化のみを持つ:モナドの変化は内側から起こる。

⑥質がある:モナドは単純実体でありながら、一様ではない。(全て違うし、複数である)

⑦世界を映す鏡:各モナドは、世界全体を固有の視点から映し出している。(表現しているの意味で良いと思います)

⑧窓なき主体:モナドは外へ開かれた窓は無いので、外界からの作用を受けないが、内部には世界全体の変化が反映されている。

⑨予定調和:各モナドは自律しつつも、あらかじめ調和された世界で共存している。

⑩神の秩序:調和を保証しているのが設計者の神である。(神は全てのモナドを見通し完璧に配置した)

⑪階層性:モナドは無機的なものから感覚あるもの、理性を持つものへとの階層があり、この差異が(全体の)秩序と多様性を生み出している。

⑫高次モナド:人間の塊は最も高次のモナドの一つである。


さて。
モナドが宇宙を構成する最小単位としてのイメージで考えると、モナドが一つとして欠ける事が無い事や、生まれる事も消える事も無い事を踏まえると、モナド自体は宇宙全体を内包しながら全体の変化を抱えつつ、永遠にモナドとしては何も変わらないイメージになるので、これって何なの?って普通なら思っちゃいますよね。

ですが我らドMというか打たれ強い(?)スピナーズです。
半田さんの2013年のレクチャーの内容を踏まえると、モナド的宇宙観を現代人の当たり前として、まずは理解する必要ある…という事になります。
なのでモナドへの理解やイメージを固める事は、ヌーソロジー的にはかなり重要なのでしょう。

統心さん曰く、ヌーソロジーはモナロドジーであり、Ψ5はモナドネットワークの中に入っているとの事。

ここから見えてくるのは、一つ一つが異なるものでありながら、全体を内包するモナドと、モナドの連続性から全体の構造が見えてくると、Ψ5の顕在化から一気にΨ7が見えて来るのかも知れませんね。



逆モナド(?)という生き方

さて、ここで最終コーナーに来たそうですが、統心さんは面白いテーマを掲げました。

それが「逆モナドという生き方」です。

「私は私」とは、人間は個として普通に認識している感覚ですね。

ここでモナロドジーを踏まえると、私達の「個」である感覚はある意味でモナド的と言え、個は全体に包まれている事を踏まえると、普通の感覚としてある、「宇宙の中に私が居る」の感覚の元になっていると言えるなぁと思いました。

ここで身体に目を向けると、個は全体を映す鏡であるなら、細胞の一つ一つは私の肉体全体を内包し、樹木と森の関係のように、全体に包まれつつ全体を包む有機的な個として考える事が出来ます。

また、偶然が無い必然や予定調和の世界観のモナドを私達個体として考えると、私達本来は外部に影響を受けておらず、外部の変化を全て内包して表している存在と言えます。

この時、モナド自体に起きた何か(内的変化)は、全てに偶然は無く、全体に波及しながら宇宙全体…言い換えると全モナドへ一斉に伝わっており、それは成るべくしてそうなった調和された必然…と言えます。

ライプニッツ曰く、そならなかった理由も必然なのだそうで、その理由も既に持っているのだとすると、自分自身の中にある理由は、内的外的に関わらず、肯定も否定も含め、あらゆる全ての理由が必然的に調和的に詰まっているイメージが描けます。

統心さんが語った内容を踏まえると、否定理由を「そうならなかった必然的理由」として見る事で、全部が肯定的に見る事が出来ますね。

ここから逆モナドの話になりました。

ライプニッツの言う神は、モナドを包みつつ、モナドに包まれている実存者になっています。これはモナドを作る側のイメージの神ですね。

先ほどの線で囲んだ項目の説明にあったモナドは、被造物として存在者として描かれたモナドになっている事が見えて来ます。

言い換えると、神がモナドを作り、モナドに神が宿っている…じゃあモナドって神じゃないとしたら何者なの?みたいな感じです。

モナドを神と別の存在(作られた側)として見ると、モナドに宿る神の働きを多くを定義する必要があると言えるので、純粋に多くの説明必要になるのかな?とサイト主は単純に考えましたが…。

一方の統心さんのおっしゃる「逆モナド」の考え方は、全体に包まれている個体側のモナドが、宇宙全体を包んでいる視点側のお話のようです。

逆モナドの説明や、内包する否定的な必然を「そうならなかった必然や、それを選ばなかった理由」として考えると、先ほどの作る側の神の理由とは違う、ポジティブさのイメージが見えて来ますね。

また、統心さんの家系図、逆家系図から見ると、包まれつつの世界観は家系図で、包むの世界観は逆家系図になっているとの事。

ここから包まれつつを時空とすると、包むが持続として見る事が出来ますね。



まとめ

さて2回目の大筋はモナドの世界観への理解に尽きるのかな?と思いましたがいかがですか?

スピナーズの方は哲学に通じておられる方が多い印象なので、「モナド」の事もご存知の方が多かったかも知れません。

サイト主は初めて知った概念というか、言葉だったので1回で理解をするには至りませんでしたが、部分と全体の関係性や、包む事と包まれる事、また、個と全体の関係性がかなり整理できたように思います。
(今回のモナドとΨ7や8への連結が完全に見えるのは次回の最終回になるのかな?)

という事で、モナドのまとめは本文の線で囲んだ中に記載していますので、ここではXのポストから、半田さんのモナド関連のポストを記載して今回のまとめとさせていただきます。




次回はいよいよ最終回!
総まとめとして、濃厚な回になりそうですね!

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