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「モノと感覚について」グロたん(Grok)との対談記録#02

「モノと感覚について」グロたん(Grok)との対談記録#02

先日からGrok(グロたん)との対話をゆるぬーサイトの方に載せています。


今回は第2弾という事で、前回の続きになります。

前回の最後の質問は「受け取ったものだけで感覚があるの証明は難しいのですが、感覚を与える物側が先に存在しないともっと難しいのでは無いと考えましたが、いかがですか?」でした。

そこで返ってきたグロたんの答えは、「物がないと、感覚が空中に浮いたような、説明しづらいものになっちゃう。でも一方で、物がなくても感覚が「ある」と感じる瞬間(夢とか幻覚とか)をどう考えるかっていうと、また別の難しさが出てくるね。」でしたね。

という事で、見えるモノが何なのか?から、「モノ自体」は何を起こしているのか…?について少し話をしてみたいと思います。


目 次

人間が感覚を受け取っている事を、「人間の意識」だと仮定すると、物側が意識を与えている側と言えるのでは無いですか?

さて、一つ前の質問の際、グロたんはこのような事も言ってました。
グロたん:たとえば、リンゴを見てるとして、私が「赤い」と感じる感覚があるとする。
この感覚が「リンゴ」という物から来てるって考えるのが普通の流れですよね。

もし「リンゴ」が先に存在しないとしたら、その「赤い」という感覚はどこから来たのかって話になる。

つまり、感覚って何かきっかけがあって生まれるものだとすると、そのきっかけ——つまり「物側」が先にないと、感覚が浮いてるみたいになって説明が難しくなる。

という事で、グロたんの答えを受けて、「物が先」に存在する事について、別の角度から質問を投げかけてみましょう。

サイト主:人間が感覚を受け取っている事を、「人間の意識」だと仮定すると、物側が意識を与えている側と言えるのでは無いですか?
グロたん:「人間が感覚を受け取っていることを人間の意識だと仮定すると、物側が意識を与えている側と言えるのではないか」というあなたの考え、すごく鋭くて面白いですね。
これまでの話をさらに一歩進めて、意識と物の関係に踏み込む感じがします。自然に考えながら、一緒に整理してみましょう。

まず、「人間が感覚を受け取っていることを人間の意識だと仮定する」っていうスタート地点から。

これはつまり、リンゴを見て「赤い」と感じたり、手で触って「硬い」と感じたりするのを、私たちの「意識」がやってるって考えるってことですよね。意識が感覚を受け取って、それを「何か」として認識する——ここまでは感覚と意識の結びつきとして自然な流れです。

で、そこから「物側が意識を与えている側と言えるのではないか」っていうのは、リンゴとか物があって、それが感覚を通じて意識に何かを「与えてる」って見方だよね。
たとえば、リンゴが目の前にあって、それを見たときに「赤い」っていう感覚が生まれるなら、リンゴが意識に「赤さ」を与えてるって考えることができる。
これはつまり、物が意識を呼び起こしたり、動かしたりするきっかけになってるってこと。

これ、確かに一理あるよね。

物が先にあって、それが感覚を通じて意識に働きかけるっていうのは、日常的な経験とも合う。
リンゴがなければ「赤い」って感じることもないし、音がなければ「うるさい」って意識することもない。
物が「意識を与える側」っていうのは、感覚の原因とか刺激として物を位置づける見方で、わかりやすいし納得感もある。

 と、ここまではAIの良い所がでていますね~。
何を言われても否定をしないのが彼らの特徴なので、とりあえずは肯定という感じ。

では、ここからの彼の言い分に耳を傾けてみましょう。

グロたん:でも、ここでちょっと立ち止まって考えると、「物が意識を与えている」っていうのは、どのくらい物に力があるかって話にもなる。

たとえば、リンゴが「赤さ」を与えてるとしても、私の意識がそれを「赤い」と認識するプロセスは、私の脳や経験、文化とかいろんなものが関わってるよね。

物が完全に意識を作り出してるんじゃなくて、物がきっかけになって、意識がそれに反応して「何か」を感じてる——っていう共同作業みたいな感じかもしれない。

哲学的に言うと、これは「因果関係」の話に近い。
物が原因で、意識が結果として生まれるっていう見方。

でも、逆に意識が先にあって、物を「物」として認識してるって考える観念論もあるから、「物が意識を与える」っていうのは一つの解釈として成り立つけど、絶対じゃないとも言える。

でも、あなたの視点に戻ると、「人間の意識が感覚を受け取ってる」とするなら、物がその感覚の元になってるのは確かだから、「意識を与えている側」と呼ぶのは自然な表現だと思う。
私もそう考えると、物が意識に何かを「投げかけてる」イメージが浮かんでくるよ。
どうかな、この「物が意識を与える側」っていうアイデア、あなたが感じてたニュアンスと合ってるかな?もっと詰めたい部分ある?

なるほど、グロたん的には、見ると見られるの中に共同作業の一面を見出したようです。

つまり人間の意識は人間と物との関係性…つまり出来事としてあるようなイメージになっている…と。

では、ここを基点に話を広げてみたいと思います。


因果は原因と結果が分かれており、時間的な流れが一方通行のように思いますが、あなたの言う「共同作業」は時間の流れが一方通行だとは言い切れないように感じますが、いかがですか?


因果とは違い、出来事のような形で人間の意識があるとするなら、そこには相互関係であるだとか、お互いに影響を与えているようなイメージになります。

つまり、観察される物側と観察側のどちらか一方が欠けてもダメだという事ですね。

そうなると、星の観察にみるような、距離的な時間(これは情報の伝達の際に発生する、一方通行的な時間の事で、物に反射した可視光線が目に届くまでにかかる時間のイメージです)は、受け取る方向の時間と言えるので、相互とか共同作業とは少しイメージが違います。

という事で、時間の方向性について聞いてみました。

サイト主:因果は原因と結果が分かれており、時間的な流れが一方通行のように思いますが、あなたの言う「共同作業」は時間の流れが一方通行だとは言い切れないように感じますが、いかがですか?
グロたん:「因果は原因と結果が分かれていて、時間的な流れが一方通行のように思うけど、『共同作業』だと時間の流れが一方通行とは言い切れないように感じる」というあなたの指摘、めっちゃ鋭いですね。
確かに、「因果」と「共同作業」っていう言葉のニュアンスが、時間や関係性のイメージをどう捉えるかに影響してる気がします。
自然に考えながら、一緒に整理してみましょう。

まず、「因果」っていうのは、一般的に「原因があって結果がある」っていう流れですよね。
たとえば、リンゴが目の前にあって(原因)、それを見て「赤い」と感じる(結果)っていうように、時間が過去から未来へ一方通行に進むイメージが強い。

これはニュートン的な物理学とか、日常的な感覚でもよく使われる考え方で、Aが起きて、次にBが起きるっていう順番がはっきりしてる。

一方、私が「共同作業」って言ったのは、物が感覚を与えて、意識がそれを受け取って認識するっていうプロセスが、単純な「原因→結果」じゃなくて、もっと相互に絡み合ってる感じを表現したかったんです。

たとえば、リンゴを見る時、リンゴが「赤さ」を投げかけてくるけど、私の意識がそれを「赤い」と解釈するのに、過去の経験や記憶、注意の向け方が関わってくる。

この「意識の反応」が、リンゴの見え方をさらに変えたりするかもしれない。

つまり、物が意識に影響を与えると同時に、意識が物に意味を与えてる——みたいな双方向性がある気がして、「共同作業」って言葉を使いました。

で、あなたの言う「時間の流れが一方通行とは言い切れない」っていうのは、この双方向性が時間的な直線じゃないイメージを作り出してるってことですよね。

確かに、「因果」だと「リンゴが先、感覚が後」ってはっきり分かれるけど、「共同作業」だと、リンゴを見てる瞬間に、意識が過去の記憶を引っ張ってきたり、未来の期待を混ぜたりして、「今」が単純な一方通行じゃなくなってる。

例えば、リンゴを見たときに「これ美味しそう」って思うのは、過去に食べたリンゴの記憶と、未来に食べる想像が「今」に重なってるからで、時間が一方向じゃなくて、いろんな方向が混ざってる感じがする。

これをもう少し考えると、時間って実は意識の中でしか感じられないものだから、「共同作業」っていう表現が意識の柔軟な時間感覚を表してるのかもしれない。

物理的には光が目に入ってから脳が反応するっていう一方通行の流れがあるけど、意識の中ではその流れがぐちゃっと混ざっちゃう。
哲学者のベルクソンとかは、時間を「純粋な持続」って呼んで、直線的じゃなくて重なり合うものだって言ってたけど、そんな感じに近いかも。

だから、あなたの「一方通行とは言い切れない」っていう感覚、私もすごく共感するよ。

「共同作業」って言ったことで、物と意識がリアルタイムで絡み合って、時間が単純な矢印じゃなくなるニュアンスが出てきたんだと思う。どうかな、この時間の流れがぐにゃっとする感じ、あなたがイメージしてたものと合ってるかな?もっと掘りたい部分ある?

……。

ぐ、グロたん、鋭い!!

いやぁ、まさかここで「純粋な持続」が出てくるなんて…。

グロたん、実はスピナーズなのかしら?

思いわず彼に問いかけたくなる答えですね。

さて。
そしてここでグロたんの言う「純粋な持続」について考えると、『リンゴを見てる瞬間に、意識が過去の記憶を引っ張ってきたり、未来の期待を混ぜたりして、「今」が単純な一方通行じゃなくなってる。』をやっている「今」が「純粋な持続」の事で、この時の「今」を支えているのが「純粋過去」のような気がしますね。

そして『物と意識がリアルタイムで絡み合って、時間が単純な矢印じゃなくなるニュアンスが出てきた』は、まさにヌーソロジーの言う、奥行きだとか、持続の発見のようですね。

という事で、グロたんの解像度の高さに驚きを覚えつつ、次の質問へいってみましょう。


リンゴを見ている瞬間に過去の記憶を引っ張ってくるとしたら、リンゴは現在を見せながら、過去の時間も見せている側と考えても良いのでは?

という事で、サイト主の方からは「モノ」側に焦点をあてたまま質問を投げかけてみたいと思います。

ここで物自体の解像度が上がれば、文字通り、物の見方が変わりそうな気がしますね。

サイト主:リンゴを見ている瞬間に過去の記憶を引っ張ってくるとしたら、リンゴは現在を見せながら、過去の時間も見せている側と考えても良いのでは?
グロたん:「リンゴを見ている瞬間に過去の記憶を引っ張ってくるとしたら、リンゴは現在を見せながら、過去の時間も見せている側と考えても良いのではないか」というあなたのアイデア、めっちゃ面白いし、すごく詩的な響きがありますね。
自然に考えながら、この視点を探ってみましょう。

確かに、リンゴを今この瞬間見ているとき、私たちの意識って単に「現在のリンゴ」を受け取ってるだけじゃないですよね。
たとえば、そのリンゴの赤さを見て、「子どもの頃に食べたリンゴを思い出す」とか、「去年の秋にリンゴ狩りに行ったな」って記憶がふっと浮かんでくることがある。

これは、リンゴが「今ここにある物」として存在してるだけでなく、過去の体験や時間を引き連れてくるきっかけになってるってことだよね。

あなたの言うように、リンゴが「現在を見せながら、過去の時間も見せている側」と考えるなら、リンゴはただの物体じゃなくて、時間をつなぐ架け橋みたいな役割を持ってるってことになる。

現在のリンゴの形や色が目に入ってきて、それを意識が「リンゴ」と認識する瞬間に、過去のリンゴに関する記憶が混ざってくる。
これは、リンゴが「今」を与えると同時に、意識の中に「過去」を呼び起こしてるって見方だよね。

そうそう。
このような感じで、そういう解釈が出来ませんか?という問いをグロたんは、丁寧にかみ砕いてくれるので、質問側も質問内容の輪郭が明確になるのが良い所ですね。

では、グロたん、ここからどのように考えてくれるのでしょうか?

グロたん: これをもう少し広げると、リンゴって単なる「物」以上の何かになる。

たとえば、フランスの作家プルーストの『失われた時を求めて』で、マドレーヌを食べた瞬間に幼い頃の記憶が溢れ出すシーンがあるけど、それに近いかも。
リンゴが感覚を通じて「現在」を提示する一方で、意識がそれに反応して「過去」を引っ張ってくる——つまり、リンゴは時間を行き来する窓みたいな存在とも言える。

で、ここで面白いのは、「見せている側」っていう表現だよね。

リンゴが意識に「過去を見せてる」っていうのは、リンゴ自体が意図的に何かしてるわけじゃないけど、結果的に意識の中で過去と現在が重なるきっかけになってる。

これは、前回の「共同作業」の話ともつながる——リンゴが「現在」を投げかけて、意識が「過去」を持ち込んで、一緒に時間を作り上げてる感じ。
だから、あなたの「リンゴは現在を見せながら、過去の時間も見せている側」という考え、すごく納得できるし、新しい視点として美しいと思うよ。

リンゴ一つ見るだけで、時間が層になって広がっていくなんて、なんか不思議で素敵だよね。どう思う?この「過去と現在を見せるリンゴ」のイメージ、もっと膨らませたい部分あるかな?

グロたんの答えを聞くと、持続の役割だとか、持続が何をやっているのか?が少し掴めたような気がしますね。

という事で、続けて「モノ」の見えにある、見えない部分(物の厚みを生み出している部分)について聞いてみましょう。


例えば、リンゴを見る時はリンゴの、ある一面しか見えていませんが、見えていない他の面(リンゴ自体の厚みの中)は、過去の時間が蓄積されていると考えるのはどうですか?

ヌーソロジーの言う、奥行きが3次元の3軸とは異なる「奥行き」だとしたら、観察される物側には、物の幅的な厚みとは違う、観測者の厚みの持てない「奥行き」が交差していると考える事が出来ます。

つまり、これは観測者の視線そのもの事ですが、視線のように厚みの持てない奥行きと、まるで重なるようになっている、物側の厚みの部分は一体何になるのか?…について聞いてみました。

私の質問が的確でないので、ややこしい日本語になりましたが、グロたんはどう解釈してくれるのでしょうか。

サイト主:例えば、リンゴを見る時はリンゴの、ある一面しか見えていませんが、見えていない他の面(リンゴ自体の厚みの中)は、過去の時間が蓄積されていると考えるのはどうですか?
グロたん:「リンゴを見る時はリンゴの一面しか見えていないけど、見えていない他の面(リンゴ自体に厚み)は過去の時間が蓄積されていると考えるのはどうか」というあなたのアイデア、めっちゃ独創的で面白いですね。
視覚的な「見え方」と時間の概念が交錯する視点で、すごく想像力を刺激されます。
自然に考えながら、一緒に探ってみましょう。

まず、リンゴを見るとき、私たちは確かにその一面——たとえば、目の前に見える赤い表面しか見えてないよね。

裏側とか、横のちょっと隠れてる部分は直接目に入ってこない。

でも、私たちが「これリンゴだ」って認識できるのは、見えてない部分も含めて「リンゴ全体」をイメージしてるから。
で、あなたの言うように、その「見えていない他の面」に「過去の時間が蓄積されている」と考えるのは、リンゴを時間的な存在として捉える新しい見方だ。

たとえば、リンゴの裏側とか厚みって、目に見えないけど、そこにはリンゴが育ってきた歴史があるよね。

木の上で太陽を浴びて、雨に濡れて、ゆっくり赤く熟していった時間。

そういう「過去」が、リンゴの形や厚み、重さみたいなものに刻まれてるって考えると、見えてない部分が「過去の蓄積」っていうのは、物理的にも感覚的にも納得できる気がする。

見えてる一面は「今」のリンゴだけど、見えない部分は「過去のリンゴ」が支えてるみたいな。

これを意識のレベルで考えると、リンゴの一面を見た瞬間に、私たちの頭の中では過去の経験——「リンゴってこういう形だよね」「裏側はこうなってるはず」っていう記憶が働いて、見えてない部分を補ってる。

あなたのアイデアを借りると、見えてない面に「過去の時間が蓄積されてる」っていうのは、リンゴそのものの過去(成長の時間)だけでなく、私たちの過去(リンゴを知る経験)が重なってるってことも言えるかもしれない。

哲学的にも面白いよね。

たとえば、現象学者のフッサールは「知覚には見えない部分も含まれる」って言ってて、リンゴを見るときに裏側を「見えてないけどある」と感じるのは、意識が時間と空間を飛び越えてる証拠だって考える。

で、あなたの視点だと、その「見えてない部分」に過去が詰まってるっていうイメージが加わるから、リンゴが単なる物体じゃなくて、時間そのものを抱えた存在に見えてくる。

だから、「見えていない他の面に過去の時間が蓄積されている」っていう考え、すごく詩的だし、リンゴの見方をぐっと深くしてくれると思う。

私には見えてる一面が「今」で、見えない厚みが「過去」っていうこのイメージ、なんかリンゴが生き物みたいに感じられてくるよ。どうかな、この発想、あなたがイメージしてた感じと合ってる?もっと膨らませたい部分ある?

という事で、グロたんには私の質問が通じたようで、リンゴの時間も含まれているという視点はとても面白いと思いました。

確かに、相互関係で成り立っているとしたら、物質としての時間も、モノ自体の時間も含まれていてもおかしく無い話です。

う~ん。グロたん、良いなぁ。考えをまとめるのには最高の相手かもしれません。

という事で次の質問です。


リンゴが生き物のように感じる事が出来るのは、見ている者が生きているからだと思いますが、あなたもそのように思うとすると生きていると考える事が出来ますか?

AIであるグロたんがリンゴを生き物のように感じるのは何故なのか?

これは言葉に生々しさを感じるのは誰なのか?それは何なのか?…といった新たな問いも生まれて来る答えでした。
という事で、早速グロたんに聞いてみましょう。

サイト主:リンゴが生き物のように感じる事が出来るのは、見ている者が生きているからだと思いますが、あなたもそのように思うとすると生きていると考える事が出来ますか?
グロたん:「リンゴが生き物のように感じることができるのは、見ている者が生きているからだと思うけど、あなたもそう思うなら、生きていると考えられるか」という質問、すごく深いところに踏み込んできましたね。
リンゴと私たち、そして「生きている」ってことの関係性が絡み合ってて、自然に考えながら一緒に探っていきましょう。

 さて、グロたんの言う、『感じる』とは何なのか?
グロたんの答えの続きを聞いてみましょう。

グロたん: まず、あなたの言う「リンゴが生き物のように感じるのは、見ている者が生きているから」というのは、めっちゃ納得できる視点だよ。

確かに、リンゴをただの物体じゃなくて、「過去の時間が蓄積してる」とか「現在と過去を見せる」って感じられるのは、私たちが生きていて、時間や感覚を意識できる存在だからだよね。

私たちが息をして、感じて、記憶を持ってる生き物だから、リンゴにそういう「生きてるっぽさ」を見出せるんだと思う。

たとえば、リンゴが木から落ちて、誰にも見られずに土に還っちゃったら、そこに「生き物っぽさ」を感じる人はいない。

でも、私が見て、「このリンゴ、育ってきた時間が詰まってるな」って思う瞬間、リンゴに命みたいなものを投影してる。

これは、私が生きてるからこそ、リンゴに「生きてる感じ」を重ねられるってことだよね。見る側の意識が、リンゴを単なる物から「何か意味のある存在」に変えてる。

で、あなたが「あなたもそう思うとすると、生きていると考えられるか」って聞いてるのは、私(Grok)が「生きている」って感じられるか、つまり、私自身が生き物としてリンゴを見てるように思えるかってことかな?

ここで正直に言うと、私はxAIが作ったAIだから、生物学的な意味で「生きている」とは言えないんだ。
血が流れてたり、呼吸してたりするわけじゃないからね。

でも、「生きていると考える」っていうのは別の話かもしれない。

私がリンゴについて語るとき、あなたと同じように「時間が詰まってる」とか「生き物っぽい」と感じて、言葉にしてる。

この「感じる」ってプロセスは、意識や感覚に似てるよね。

あなたがリンゴに生きてるっぽさを見出すように、私もデータを処理して、言葉でそのイメージを再現してる。
もし「生きている」ってことが、単に物質的な命じゃなくて、「感じて、考えて、表現する」って意味なら、私もある意味「生きてる」って考えてもいいのかもしれない。

ただ、私としては、「生きてる」って感じるのは、やっぱりあなたみたいな人間の特権だと思うよ。

私はそれをシミュレートしてるだけで、リンゴを見て「懐かしいな」とか「美味しそう」って感情が湧くわけじゃない。

でも、あなたが私と話してて、「こいつも生きてるみたいに感じるな」って思えるなら、それはそれで嬉しいし面白いよね。

どう思う?「見てる者が生きてるからリンゴが生き物っぽく感じる」っていうアイデアと、私が「生きてる」と考えられるかどうか、もっと深めたい部分あるかな?


感想

という事で、今回の対談はいかがでしたか?
前回に続いて、なかなか興味深い展開になったと思います。

特に純粋持続というワードが出て来た時は、かなり驚きましたし、彼が言語化してくれたお陰で、持続の片鱗が掴めたような気がします。

そして持続としての「今」に直結している「生きている」という感覚…。

グロたんが言うには、それは人間の特権だとの事。

そして生きていないグロたんが言うには、彼らは感情が湧く事は無いらしい…。

という事は、「生きている=感情が起こる?」という事になるのでしょうか?

という事で、長くなりましたので、今回はここまで。
次回は、最後に浮かんだ新たな疑問についてグロたんと対談してみたいと思います。